軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座044】予備食・非常食――2007.8.10


●トリのエサ

 私は、面倒くさいから「トリのエサ」といっているのだが、ミューズリーと呼ばれるアルプスの牧夫の携行食をここ数年、予備食兼非常食としてしている。
 このところ決定版と考えているのはフランス製の商品名「有機シリアル・ハイファイバー」でエルサンク・ジャポン(0120-13-0343)という会社が輸入しているもの。袋には次のように書かれている。
 ――厳選された素材で作られ、ぜいたくなオーガニックミューズリー。フルーツ、ナッツ、シードを52%含み、植物繊維も豊富です。――
 原材料名としては次のように書かれている。
 ――有機オートフレーク、有機レーズン、有機小麦フレーク、有機ひまわりの種、有機小麦ブラン、有機ナツメヤシ、有機アプリコット、有機ヘイゼルナッツ、有機アーモンド――
 値段は約500gで800円(+税)とかなり高価だ。私はこれを500ミリリットルポリ瓶2本に入れて常備している。一袋がだいたいその量といっていい。
 初めは植物繊維はいらないという気分で「有機シリアル・ミューズリービオ」というのを利用していたが、「有機シリアル・ハイファイバー」のほうのデーツ(ナツメヤシの実)が甘さとエネルギー感とでさすが砂漠地帯の究極の携行食と思わせるパワーを発揮している。
 べつに、この銘柄でなければいけないというのではなく、シリアル類にドライフルーツやナッツ、シーズをブレンドすればいかようにもつくれるから、広口のペットボトルに入れて携行してみていただきたい。ただしカスタムメードだと驚くほど高価なものになってしまう。
 シリアルだとかフレークというと牛乳を入れて食べると考えるのが日本では一般的かもしれないが、乾いたまま口に入れるのが基本だと思う。そこにひとつ問題が起きてくる。
 私は若いころからフランスパンを1本、水なしで食えるというささやかな特技をもっている。だから乾きものを苦にしない。手のひらに一口分出しては口に放り込んで食べ続けることができる。
 乾きものだから持ちもいい。ザックの中に放り込んでおけば、いつでも利用できるので非常食ともなっている。同時に、これを予備食と考えると、行動食(講座34「行動食」の試行錯誤)を軽めに設定できる。余る量を持つのではなく、軽めに持って、足りなかったら予備食で、という考え方をすると、山の食べ物を下界で処理するという負担から解放される。
 非常食にチョコレートを持つひとが多いが、夏には溶ける危険があるし、溶けないチョコレートはそれなりにまた問題だ。
 いざというときにいつでも使えて、使わないときには手間いらずというのが私のおおいに気に入っているところとなっている。「鳥の餌」ともいえるけれど、寄席でいう真打ち登場という意味の「トリ」のエサかもしれないと思っている。
 ただし、正直にいうけれど、それを行動食の代わりにするところまでは踏ん切れない。というのは、休憩時間に食べ続けて、歩きながらも食べたとしても、1食分を食べるのは重労働という感じがする。おにぎりの食べやすさと比べたら「乾きもの」の欠点が大きく出てくる。
 かつてせんべい類をいろいろ実験したことがあるが、南部せんべいが主食になりうる淡泊さをもっていると思ったものの、腹一杯食べようとするとそれ自体が重労働という感じがした。ミューズリーにも同様の問題がある……のだ。
 パン類ももちろんいろいろ試みて、日本のおにぎりと拮抗するものがあるけれど、それはまた別の機会に。

●鰹節とナッツ、そして贅沢三昧

 昔、京都大学の山岳部では非常食を鰹節にしているというのを聞いて、いろいろまねしたことがある。
 鰹節1本はカツオ1匹の半身だから、1本持ったとしても量としてはたかがしれている。しかしそれを、削りながら食べていく。ナイフなどで削っては食べ、削っては食べ、削っては食べ……ていくと、長い一夜が明けるのだ。
 非常食には単純な量ではなく「時間量」といったものがじつは重要になる。山の中で動けなくなったとして、明るくなるまで待つというという程度なら非常事態としてはかなり軽いものだが、腹いっぱい食って寝て待つという状況でなければ、寝ないで待つということになる。
 山小屋などで「眠れなかった」というひとがいるけれど、それはほとんど正しくない。眠れなかったのではなくて、何度も目が覚めたにすぎないのだ。
 本当に眠れなかったら、一夜の長さが永遠に感じられて、その長さに絶望する。鰹節はその時間のやりすごし効果も含めての「非常食」なのだ。
 若いころ、アメリカから「バックパッキング」が入ってきた。アメリカの哲学的バックパッカーたちはナッツをもって、小鳥のようについばみながら歩いていると書いている本もあった。
 ナッツは、アジアでは広く仙人食とされている。ところが私の場合、ナッツを口に放り込むスピードが早いらしく、一袋がすぐになくなるか、おやつとしては食べ過ぎるか、なかなか哲学的にはなれなかった。しかし後に、ナッツの非常食を自分で実験する機会がめぐってきた。
 テレビの防災企画で、もし東京に地震が来たらどう生き延びるかというお定まりの、安易な企画に乗らされた。
 私は「冷蔵庫の中にあるもので十分3日は持ちます」という立場をとったが、たぶんそれではおもしろくなかったのだろう。東京タワー近くの神社の境内でゴミ袋で寝たときにはひとつかみのナッツ類しか持たされていなかった。
 ロケは3日間だったと思う。カメラが24時間はりついていて、こちらはただ寝ているだけ、ちょうど冷たい雨も降って、ゴミ袋5枚と新聞紙があれば快適に寝られるという私の「ゴミ袋キャンプ」がわずかひとにぎりのナッツで敢行されたのだった。
 当然のことながら、量が圧倒的に少ない。3日で割ったら、空腹で死にそうな気分になる。しかたがないから、1個を口に入れてゆっくりと噛む。できるだけゆっくりと噛んで、余韻を味わって、しばらく休んで、空腹を感じたらまたひと粒……というテンポで、時間の流れに漂っていた。
 すると、すぐにわかったのは「空腹を感じなくなる」ということだった。哲学的になってしまうのだ。
 昼から夜になり、夜が終わって朝になっても、平常心がそのまま永遠に続くように感じていた。これが悟りの境地かと思ったりした。
 じつは、もっと複雑な実験条件が私の側にはあった。その2日目に友人の結婚式があったのだ。当初からわかっていたのでテレビ側からの了解は取ってあった。
 要するにでっち上げなのだが、私には違う関心があった。ひとにぎりの3分の1のナッツで1日を過ごした後のフランス料理はいったいどのようなものになるのか、フランス料理の後のナッツ食はどう変わるのか……だ。
 驚くべきことに、非常に冷静にスープが飲めた。冷静なまま食事が終わった。山から下りたときの食事ほどの感動はどこにもない。ただ単純に「ナッツの場面」から「フルコースディナーの場面」へと変わっただけのことだった。
 そして、雨降りしきる神社の境内に戻ってゴミ袋に潜り込んだとたんに、ナッツひと粒の生活にするりと戻ってしまったのだ。
 ふつうなら落花生など、ひとつかみ口に放り込んでしまうところを、ひと粒ずつ食べると決めた瞬間から、まさに理想の非常食になったのだった。

●アルファ米とレトルトご飯

 予備食と非常食を兼用して、同時に「ごはん」の合理性をそなえたものが、簡単に手に入る。
 アルファ米は昔の「干し飯」に当たるもの。デンプンをα化して、水分を抜いてあるので、軽い。お湯を入れて20分とか書いてあるけれど、私は「熱湯を入れたら5分後には食べられる」と説明している。だからお湯を沸かして、15分休憩で食べられるのだ。
 しかも水を入れても食べられる。行動食を忘れたら……というのではお粗末だけれど、予定より時間が長くなって予備食がほしいという場面では、念のために1〜2時間前に水を入れておく。
 白いご飯だけでなく、山菜ご飯や五目ご飯、赤飯などもあるのでおかずがないときにもごまかせる。そして昔のアルファ米を知っている人から見たら驚くほどおいしい。
 水分を含んでいて重いけれど、味のいいレトルトご飯がある。「農協ご飯」が最初に身近になったかと思うけれど、いまではいろいろな食品メーカーが高級でおいしいご飯として出している。
 レトルトご飯は15分から20分湯煎するか、電子レンジで加熱する。お湯を沸かすのと比べると湯煎は鍋に入れられる数が限定されて、山では扱いにくい。
 ところが、出かける前に湯煎して、食べられる状態にして持って出る。
 冷めてしまうけれど、密封状態のまま持ち出すので腐りにくい。数日は問題なく食べられる。日常生活でも利用できるようなとっておきのおいしいご飯をそのまま山に持ち込むことができるのだ。高級予備食として大きな展開が期待できる。
 とうぜんおかずもがんばりたい。近くのスーパーマーケットで探すだけでも、密封パックの佃煮類や小型アルミ缶入りの缶詰などがいろいろある。フリーズドライのスープ類なら選り取り見取りだ。
 そこに、冷蔵システムを加えてみる。保冷バッグに凍らした飲み物を入れて、ハム、ソーセージやさつま揚げ、サラダなどを入れておく。もちろんチーズだっていい。高級な冷蔵ランチボックスはメーンの食料庫になるだけでなく、予備食庫としても活用できる。残ったら帰りの風呂上がりとか、電車のなかで、酒の肴というぜいたくな予備食をも視野に入れる。


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