山旅図鑑…く
倉見山(2022.5.3)
フォトエッセイ・伊藤 幸司

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★糸の会 no.1227
2022.5.3
倉見山



倉見山、三つ峠駅
【撮影】09時56分=伊藤 幸司=005
私がまだ登山なんてまったく視野の中になかった若い時代に、日本には一大登山ブームがありました。土曜日が「半ドン」でしたから夕方から電車に乗って「夜行日帰り」か、ちょっと大きな山なら月曜日の朝に職場に直帰という登山が、いわば「若さの象徴」だったのです。そしてその当時、この「三つ峠駅」は首都圏からの登山者にとっては超有名駅でした。山にまったく興味のなかった私だって「三つ峠山」というあまり高くなさそうな山の名前を知っていました。
つまり、この駅までの「夜行電車」があって、登山者を運んでいたのです。ドンピシャの情報ではありませんがヤマケイオンラインの「日本の山&登山ルート検索」に三ツ峠山がありました。
———三ツ峠は岩登りのゲレンデとして古い歴史がある。大正13年6月1日、沼井鉄太郎らにより試登され、その記録が発表された。昭和4年には富士山麓電気鉄道(現富士急行)が営業運転を開始し、新聞輸送を兼ねて、早朝3時前後の電車を運転していた。休暇の少なかった勤労青年も夜行日帰りが可能となり、多くの岳人を迎えた。———

倉見山、三ツ峠山
【撮影】09時56分=伊藤 幸司=006
正式な名称を国土地理院の地形図に求めれば「三ツ峠山」となりますが、たとえばウィキペディアでは「三つ峠」というタイトルを立てて———三つ峠(みつとうげ)は、山梨県都留市、西桂町、富士河口湖町の境界にある標高1,785mの山である。峠ではない。三ッ峠山と呼ばれることもある[1]。———としているんですね。でもその脚注[1]という参考文献には———国土地理院の地図や山岳関連図書では三ッ峠山と紹介されている。———とあるので、どうなんでしょうね?
厳密に言えば国土地理院の「三ツ峠山」の「ツ」は並字です。じつは私は促音を使った「三ッ峠山」が好みといえば好みなんですが、昭文社の「山と高原地図」は、さすがに国土地理院の「三ツ峠山」に従っていますね。
「三つ峠駅」の駅前広場から見上げたこの写真にはピークが4つ見えています。最高峰の開運山(1,785m)のピークは一番左で、クライミングで有名な屏風岩はその左側面になります。その右の、白いパラボラアンテナが見えるピークは開運山の一部みたいですね。その右、白い建物と大きな電波塔があるのが御巣鷹山(1,775m)になります。一番右にある丸いピークは隣りの西桂駅へと下ってくる尾根筋の無名峰のようです。では「三ツ峠山」の木無山(1,732m)はどこかというと、開運山(1,785m)の左下、屏風岩を見上げる場所に、ほぼ平坦な広がりとしてあるので見えません。

倉見山、三ツ峠山
【撮影】09時56分=伊藤 幸司=007
これが最高峰・開運山の山頂です。じつはよくわからないのですが、山頂部の四季楽園のところから開運山に登るとき、山頂直下で3枚の巨大な白い立て看板が並んでいます。それは電波反射板と呼ばれる幅が10mほどの巨大な板で、NHK、山梨放送、テレビ山梨の3枚らしいのですが、FM放送の電波を中継する仕事をしているらしいのです。……といってもここでは見えていませんが、その電波反射板の近くにそびえている細っこいアンテナ(写真中央奥の黒い棒みたいに見えるもの)が「電波塔めぐり」の三ツ峠山の電波塔群・開運山山頂によるとNHK甲府FM放送三ツ峠放送所のアンテナだそうです。
それに対して円形のパラボナアンテナをいくつもつけているのは山梨県防災行政無線・開運山中継局だそうです。その右に見えているのとセットかもしれません。

倉見山、三ツ峠山
【撮影】09時56分=伊藤 幸司=008
じつは左から3つ目のピークですが、09時56分の最初の写真で御巣鷹山(1,775m)としましたが、どうも間違いだったようです。御巣鷹山の山頂にも立派な建物と電波塔があるのですが、この写真で気づいたのは右端のピークがまだ開運山の一部で御巣鷹山はその陰に隠れているらしいのです。「電波塔めぐり」によると———開運山の北東側のもうひとつのピークにNTTの電波塔があります。この電波塔の施設は大規模で、RC造の建物2棟それぞれの屋上にパラボラを備えた鉄構が聳えています。 このピークの平坦地は全てNTTの敷地となっており、登山者が休憩できそうな広場はありません。———だそうです。

倉見山
【撮影】10時02分=伊藤 幸司=011
駅前広場にあった立派な案内図の1枚。細かいことはともかく、画面(ほぼ)中央部の赤い円の「i」マークが現在位置で、図面左上に三ツ峠山があり、右下に倉見山があるという空間把握ができました。なかなかよくできた地図なんですね。見たときにはまったく気づきませんでしたが。

倉見山
【撮影】10時05分=伊藤 幸司=017
4年前にクマガイソウを見て倉見山に登ったときには、改札を出て駅前広場の右手から町に入ったのですが、いくぶん曖昧な案内に従って住宅街を抜け、西桂小学校の前を通って、結局は、問題なくクガイソウ群生地へとたどり着くことができました。 そのときの体験と比べると、今回は過剰なほどの案内板でしたね。トイレマークのある「桂川公園」の凄さを、このとき私はまだ、まったく予感していませんでした。

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時05分=伊藤 幸司=018
クマガイソウ群生地はあっち、という矢印に従って用水路沿いの道に入ったとたん、このクマガイソウが登場したのです。群生ですよね、十分に。なんとも、まあ、みごとな群生状態。駅から歩いてわずか5分です。

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時06分=伊藤 幸司=020
まあ、なんとも不思議、かつ知性的な顔つきですよね。幾何学的な葉を広げて、そこに思いっきり謎めいた肉体をさらしている……と感じました。微妙なアンバランスをうまくまとめ上げた個性派ですね。
そのなんだかむずかしい評価に触れた資料はないか探しているうちに、北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園の「2007年植物園便り」というpdf文書に「5.クマガイソウ」がありました。
まずは———江戸時代には当時世界有数の大都市であった江戸近郊の道灌山(現在の荒川区西日暮里付近)や早稲田(現在の新宿区)でもふつうに見られたという記録(岩崎灌園「本草図譜」巻 39、1830 年)が残っています———とのこと。
そして———「平家物語」で伝わるこの話から歌舞伎「一谷嫩(ふたば)軍記 熊谷陣屋」が作られ、江戸時代の宝暦年間(1751~1763)に大坂、次いで江戸で上演され大評判をとりました。このような文芸作品から白い花のクマガイソウ、赤い花のアツモリソウにそれぞれ源氏の白、平氏の赤にちなんだ名前が付けられたと思われます。———
さらに———一方、クマガイソウにはオオフクロバナ(大袋花)、ホテイソウ(布袋草)などの異名があり、また地方名としてはキンタマバナ、キツネノキンタマ、フグリバナなどがあります。いずれも花の形状をきわめて即物的に言い表していることから、おそらくクマガイソウという文学的な名称が普及する以前はこのような名前で呼ばれていたのではないかと考えられます。———

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時06分=伊藤 幸司=022
わかりますか? これが住宅街の用水路沿いに登場したクマガイソウの群生状況です。いずれにしても、ちょうどいい時期に、わたしたちはクマガイソウを見に来たということはいえそうです。

倉見山
【撮影】10時06分=伊藤 幸司=023
ここはデジタル地形図によれば標高610mの地点です。住宅街のクマガイソウ群落を見たのはこの道路の左手、水路はその左手から、ここで右手に移ります。そして前方の立て札で、「この先車両行き止まり」になるのです。水路は前方で桂川から受水して、こちら側に流れ下り、桂川の谷に農業用水を供給していく役目のようです。正面には倉見山の山頂あたりが見えてきました。

倉見山
【撮影】10時06分=伊藤 幸司=024
道端になかなかしっかりした社がありました。古い町並みでしばしば見かける地蔵尊とか馬頭観音と違って、立派な戸建てに鎮座していらっしゃる神様のようでしたから、名前を確認したところ「長命神社」とありました。
たしか山梨県のJR中央線沿線には長寿村がいろいろあるというので古い仲間でオフロードバイクの神様といわれる賀曽利隆さんが民俗学的調査として通っていたことを思い出しました。
もとより「長命」は人間にとって一番の願い事でしょうから、あちこちにあるんでしょう。……と思って帰宅後「長命神社」で調べてみると、出てこない。長寿のお願いを受けてくれる神社や寺院はたくさん紹介されるのですが「長命」とつくものは見つかりません。「長命神社・山梨県」としてみても出てこないのですから、県内でも認知されていないと思わざるを得ないのです。そこで最後に「長命神社・西桂町」と検索してみたら、ありました。「山梨県南都留郡西桂町の神社・寺」という一覧です。ところがそこにないんですね「長命神社」は。
最後に、なんとか見つけました。———凡例-西桂町 長命神社 桂川(相模川)施工箇所 L=183.0m Page2.平面図縮尺1:500 縦断面図———というので西桂町役場のその下水道管渠図面をこまかく見てみましたが、たまたまかどうか、それは長命神社とは関係のない地区の図面でした。
……というわけで、山梨県西桂町にあるこの「長命神社」は日本ではきわめて珍しい神様を祀っているのではないかと思います。ただし、なんという神様かまではわかりません。

倉見山
【撮影】10時07分=伊藤 幸司=026
山梨県ではちょっとめずらしい、かな? と感じた穏やかで心豊かな住宅の風景でした。
ポイントになるのは用水路に設置された、転落事故率ゼロパーセントと思われるガードで、ほぼ同じ雰囲気のものがこの家の敷地側にも設置されているということが、その豊かな雰囲気をつくっていたと思います。
それ以上でも以下でもありませんが、もうひとつ付け加えれば、表門か裏門かわかりませんが、門外に置かれた鉢植えが生活を楽しんでいるこの家の人柄を感じさせるのだと思いました。

倉見山、桂川公園
【撮影】10時08分=伊藤 幸司=030
桂川に出ました。ところが「桂川」はグーグルでもヤフーでも検索サイトに出てくるのは京都の桂川(淀川水系)が圧倒的な代表格で、この山梨県の桂川は検索サイトの見出しとしては見つかりませんでした。ウィキペディアの桂川によると日本には20本の桂川があって、そのうち一級河川が14本、この桂川については———桂川(相模川) - 山梨県および神奈川県を流れる相模川の山梨県域での呼称。相模川を参照。———とありました。
ちなみに京都の桂川は———桂川 (淀川水系) - 京都府を流れる淀川水系の一級河川。———となっています。
そこで国土交通省の河川情報欄の相模川には次のように書かれていました。
———相模川は、その源を富士山(標高3,776m)に発し、山梨県内では「桂川」と呼ばれ、山中湖から笹子川、葛野川などの支川を合わせ、山梨県の東部を東に流れて神奈川県に入り、「相模川」と名を変え、相模ダム、城山ダムを経て流路を南に転じ、神奈川県中央部を流下し、中津川などの支川を合わせて相模湾に注ぐ、幹川流路延長113km、流域面積1,680km2 の一級河川です。———

倉見山、桂川公園
【撮影】10時08分=伊藤 幸司=032
桂川の向こうに、倉見山が見えていました。本当はもうすこし右側を見えるようにしておくべきでしたが、この写真だとクマガイソウ群生地は右端の外側にあって、町が推奨する登山道は右側から登る稜線の洞谷(どうや)ルートで山頂からこちらにまっすぐ下ってくる厄神(やくじん)ルートは、標高950mあたりから右手の谷に下ります。
いちばん大事な「倉見山」を撮ろうという意識がなく、向こう岸のブルーのゴミが気になったり、家並みがちょっと気に入らなかったりで、おざなりに撮った写真です。それが、後になったら、重要な1枚となった、という意味で大失敗作でした。

倉見山、桂川公園、富士山
【撮影】10時10分=伊藤 幸司=036
この町で「公園」というと、この「桂川公園」を指すらしいのですが、このあたりの子どもたちは富士山を眺めながら育つんですね。山梨県も甲府盆地だと御坂山地から富士山が顔を出してはくれるけれど、やっぱりひと山向こうという感じはあるんじゃないでしょうか。でもここは向かい合った富士山ですよね。

倉見山、桂川公園、富士山
【撮影】10時10分=伊藤 幸司=037
じつは富士急行線で三つ峠駅を過ぎて、寿駅→葭池温泉駅→下吉田駅→月江寺駅→富士山駅と進むとき、進行左側の車窓は富士山展望席となります。でも、この三つ峠駅で途中下車すると、電車は毎時1〜2本しかないので、ここでゆっくり富士山と対面できる、という考え方もあるんですよね、こんな富士山の日だったら。

倉見山、桂川公園
【撮影】10時11分=伊藤 幸司=040
なんともまあ、絵に描いたような遊歩道ですね。オリジナル画像できちんと調べてみると、なんとこの瞬間、私も含めて5人がカメラを構えていたんです。……ということは、この道はけっこう懐の深いかっこうで撮影ポイントを用意してくれている、というふうにもいえそうです。

倉見山、桂川公園、富士山
【撮影】10時11分=伊藤 幸司=041
富士急行線を使った山歩きでは、午前中の往路で、車窓からこういう富士山を見ることがしばしばあります。ところが目的の山に着いて、樹林帯をくぐり抜けて山頂に立つ頃には、昼の太陽光線が富士山をフラットにさせてしまうだけでなく、雲が山頂付近でチラチラと遊んでいたりするんです。夕方にはまたよくなる可能性はあるとして、日中はガッカリという日はあんがい多いのです。

倉見山、富士山
【撮影】10時12分=伊藤 幸司=045
桂川公園のこの道から見える富士山は、これで最後かな? と思って撮りました。

倉見山、桂川公園、三ツ峠山
【撮影】10時14分=伊藤 幸司=049
富士山との対面に一区切りついたら、こんどは三ツ峠山が見えました。右端に大きく見える山ではなくて、てっぺんが水平に見えるところが三ツ峠山になります。糸の会では真冬の三ツ峠山では左に伸びる稜線を河口湖まで下るのを定例としてきました。ここは太平洋側の気候帯なので晴天率が高く、薄く積もった雪道はものすごく歩きやすく、快適です。あるいは向こう側、母ノ白滝へと下るルートなら、たぶん誰も歩いていない雪面に踏み入れる体験ができます。

倉見山、桂川公園、三ツ峠山
【撮影】10時14分=伊藤 幸司=052
望遠で撮影すると、三ツ峠山は「三つ峠駅」から見上げた姿とほとんど同じ状態でした。
左端の開運山山頂の左側が地形図に「屏風岩」とある岩場で、本格的なクライミングを経験した人は必ず体験しているという日本の代表的なゲレンデです。
山と溪谷社のクライミング・ネットの三ツ峠には次のように書かれています。
———【概要】 三ツ峠は関東周辺で最も有名なゲレンデとして古くからクライマーに親しまれてきた。高差80メートル、幅200メートルの規模で三ツ峠山山頂直下に展開する明るく開けた岩場である。岩場は大まかに、フェイス、クラックなど多彩な内容を持つ右フェイス、傾斜の強い壁を人工登攀を交えて登る中央フェイス、クラシックなフリールートの左フェイス、の3つに分類することができる。各エリアとも第一バンド〜第三バンドと呼ばれる大きなバンドが横切っており、格好のテラスを提供している。初心者から上級者まで技術に応じた練習をすることができ、理想的なゲレンデといえよう。富士山を眺めながら本チャン気分で登る爽快感は格別だ。———

倉見山、桂川公園、富士山
【撮影】10時14分=伊藤 幸司=054
桂川が富士山から流れ出ている限り、わたしたちの行き先から消えることはないらしいと思いました。
公園は終わったようですが、桂川の遊歩道はまだ延びていました。

倉見山
【撮影】10時20分=伊藤 幸司=061
桂川を渡って、いよいよ左手の中央自動車道をくぐります。ここで桂川そのものについての情報がなにかないかと探したのですが、渓流釣りとしてはヤマメ、イワナ、ニジマスなどがあるとしても、調べていくと(やっぱり)支流をさかのぼっていかなくてはいけないんですね。
そのうちにハタオリマチのハタ印というWebページにぶつかりました。およそここから桂川の上流部分、西桂町と富士吉田市が共同で作成したもので、一見の価値ありです。
たとえば、
———山梨ハタオリ産地は、1000年以上変わらずハタオリの音が鳴り響いている産地です。富士山に囲まれた驚くほど美しい自然、思わずシャッターを切りたくなる街並み、そして新しくモノが生まれるハタオリマチをより良い形で100年後に繋ぐため『ハタオリマチのハタ印』は2016年に始動しました。———
———開かれたこのマチにはチャレンジする人々が集い、クリエイターやプランナー、シェフや歌手までもが、このマチでの暮らしを楽しんでいます。プロジェクトから5年が経過した2021年は、産地のイメージをより開放するために、ハタオリマチを「知りたい」「行きたい」「住みたい」「注文したい」ヒトがアクセスしやすい入口をご用意しました。———
———このマチは、何かが生まれる気配で満ち溢れています。面白いアイデアがあれば、それを応援するメンバーも沢山います。興味のあるヒトは、好きな入口をまずは覗いてみてください。———
桂川はそういう熱気をくぐる抜けてきたかのように、流れていた……なぁん、ちゃって。

倉見山
【撮影】10時21分=伊藤 幸司=064
桂川を渡ったら、すぐに県道・富士吉田西桂線をくぐります。

倉見山
【撮影】10時22分=伊藤 幸司=067
そして次に中央自動車道・河口湖線をくぐります。

倉見山
【撮影】10時25分=伊藤 幸司=068
あとから見直してみると「厄神社経由・倉見山山頂」という方向指示をきちんとチェックせず「町民グランド」経由「クマガイソウ群生地」へと向かったのです。なお道標では「グランド」ですが、町の観光マップなどでは「グラウンド」となっています。

倉見山
【撮影】10時27分=伊藤 幸司=072
「西桂町民グラウンド」の前を通り抜けていきました。

倉見山
【撮影】10時30分=伊藤 幸司=073
この道は中央自動車道河口湖線を右下に眺めながら登っていく感じです。

倉見山
【撮影】10時33分=伊藤 幸司=076
町民グラウンドのところから指示に従って5分ほど歩くと「堂尾山公園経由・倉見山山頂」という道標に対して、左手に登ると「クマガイソウ群生地」へ、と導く表示がありました。

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時39分=伊藤 幸司=082
町が管理する「アツモリソウ群生地」というのが正式の名称です。
到着するとまず私は「花」のクローズアップを撮りました。
この「花」の説明は私にはとてもムリ、HiroKen花さんぽのクマガイソウの説明が秀逸だと思いました。
———花の大きさは日本の野生ランの中で最大級ではないでしょうか。大きくて目立つ、肌色っぽい色をした部分が唇弁です。ちょっと内蔵チックな外観と思いました。
唇弁は大きな袋状になっていて縁が内側に巻き込んでいます。他の属のランには見られない、特殊な構造が際立っています。
中央の穴から入ったマルハナバチの仲間などの昆虫は、同じ場所から出ることができないそうです。中には長い毛が疎らに生え、ハチはそこを伝わって唇弁上部の別の穴に誘導されます。その出口は小さめで、葯が控えており、ハチは葯に体をこすりつけるようにしないと出ることができません。そのとき花粉がたっぷりハチの体につきます。ハチが別の個体で同じように花に入り込むと、体についた花粉が柱頭に接し、受粉が成立するのです。
ハチは大変ご苦労様ですが、花粉を運ぶ報酬としての蜜をもらうことができません。アツモリソウ属の花にはそもそも蜜腺がなく、花粉を運んでくれる送粉者に対して蜜などの報酬を与えない、無報酬花(rewardless flower)なのです。特殊な形状の唇弁とそこにある穴は、昆虫に対してあたかもその中に甘い蜜があるかのように見せかけているのですが、実は蜜はないので、昆虫を騙す詐欺行為であると言えます。———

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時41分=伊藤 幸司=085
基本的に日陰になっている林の中には、ちょっと強すぎるのではないかと思わせる陽光がスポットライトのように注いでいました。ここではまるで5人の踊り子のようでしたね。

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時44分=伊藤 幸司=090
西桂町の公式Webサイトに令和4年度 クマガイソウ群生地 公開という発表が出て———今年は4月28日より5月15日まで公開します。最盛期はゴールデンウイーク頃を想定しています。———
とあったので、安心して出かけることができました。
そこには「見頃」という項目もあって、とても親切な情報だと思いました。
平成26年 開花日:5月3日、見頃期間:5月9日~15日
平成27年 開花日:4月27日、見頃期間:5月5日~10日
平成28年 開花日:4月25日、見頃期間:5月1日~8日
平成29年 開花日:5月5日、見頃期間:5月6日~15日
平成30年 開花日:4月02日、見頃期間:4月25日~5月9日
令和3年 開花日:4月22日、見頃期間:4月27日~5月3日

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時44分=伊藤 幸司=092
西桂町の公式情報には、この「クマガイソウ群生地」についての概要もありました。
———クマガイソウ群生地は、故池田正純さんが昭和45年から「この花を絶滅から守り、後世に引き継ぐ為に・・・」という趣旨から栽培を始め、最盛期には3万株を数えるまでの群生地となり、毎年美しい花を咲かせ、見学者を楽しませてくれていました。現在は5,000株まで減少してしまいましたが、最盛期の状態を目指し、クマガイソウを愛でる会の皆様が保護・管理を行っております。———

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時45分=伊藤 幸司=094
だいたいおどろおどろしい顔つきに見えるクマガイソウですが、これは上からのスポットライトで、スマートな表情に写ったかと思います。

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時45分=伊藤 幸司=095
近づいて見たからといって、何がわかる、というものでもないのですが、花を撮るときには、とりあえずクローズアップしておきたいと思うのです。
私はキヤノンがEOS-1という全く新しい一眼レフシステムを発売(1989年)する時期にキヤノン販売の広報部に呼ばれて、各雑誌でモノライターとして仕事していたフリーランス数人とチームを組んで雑誌編集者向けの広報活動をはじめました。そのため、ミノルタ→ペンタックス→キヤノン→ニコンと変えてきたシステムをEOSに一新したのです。
その中ではEF28-80mmF2.8-4L USLという、レンズ駆動に超音波モーター(USL)を世界で初めて搭載してAF(オートフォーカス)を高速化したというレンズが、ズームレンズなのにどの部分でも単焦点レンズのようなシャープさだという点で革命的でした。(後に24-70mm F2.8になります)
その後一眼レフはデジタル化して私はEOS 5Dになります。最終的には広角系ズームレンズ20-35mm F2.8と超望遠系ズームレンズ100-400mm F5.6-8を常備するようになりました。
ところがそれではどうしても撮れないものがありました。私の山の写真は先頭でペースメークしながらその日見た景色や花を(代表取材として)記録して、参加された皆さんに後で写真で見ていただくと決めていました。ですから「初めて私の講座に参加された人」という価値基準を想定しつつ「その日見たもの」をできるだけ撮りこぼさないように心がけたのです。ですから「よりよい写真」を積み重ねようとする一般的な撮影態度とは違って(できれば)毎回、初めて参加した人の目線にリセットするという方法でした。その写真は見ていただくだけでなく、ほしい方には買っていただくことで写真経費をまかなうこともできました。
そういうかたちで撮りためた写真を最初に大がかりに使うことができたのは1998年の『がんばらない山歩き』(講談社)でした。そして晩聲社から出していただいた『山の道、山の花』(2007)、『軽登山を楽しむ——山の道、山の風』は半年ほどかけてすべての写真を整理分類したことで実現しました。
その間、花の写真を撮るためにEOS用の50mm F1.8というマクロレンズを近接撮影用として持参していましたが、歩きながらの撮影では不便で、あまり活用できませんでした。そのうち、ポケットタイプのデジタルカメラをルーペ代わりに使いながらシャッターを切れば記憶にも残り、記録にも残るということに気づいて、それまで薦めていたルーペ代わりに「1万円のデジタルカメラ」を買うことをすすめるようになったのです。
そしてその「1万円のデジタルカメラ」の性能がフィルム時代のカメラとは比べものにならないほど高精度だということを証明するために、この山旅図鑑の初期段階「発見写真旅」の町めぐり、庭園めぐりでは私は「1万円カメラ」1台で撮っていたのです。
2017年のはじめでしたが、富士フイルムのFinePix S9900W というカメラの中古が2万円ほどで買えることを知ったので「1万円カメラ」と比べてどこがどうすごいのか知りたいと思って買ってみたのです。これは24-1200mm相当の50倍ズームのコンパクトデジカメで接写はもちろんレンズが接触するギリギリまで可能なうえに、日の出や日没の風景を撮るときにはこれまでのレンズでは信じられないほど内面反射が取り除かれていて、テレビで見る風景のようなクリアな絵がとれました。
私はキヤノンの広報の仕事で、たとえばキヤノンのTV放送機器というレポートをまとめていますが、1984年のロサンゼルス・オリンピックに際して米国ABC放送から依頼されたテレビ用高倍率ズームで40倍ズームを完成し、キヤノン創立50周年の1987年には50倍ズームを完成。1本1,000万円というようなレンズがテレビの野球中継などをどんどん変えていったのです。
その1,000万円級のテレビカメラ用レンズと2万円の中古カメラについている50倍ズームとを比較して、かなりのレベルで遜色ない、ということに驚いたのです。
じつはキヤノンは戦後立ち上がったテレビ放送用ズームレンズで世界を席巻することになるのですが、その陰では家庭用8mmシネカメラの大口径・高倍率ズームを次々に世に送り出しながら、独自の焦点移動補正や収差補正の方法を確立していったのです。
その後、コンピューターによる設計と非球面レンズの製造技術の革新で、1945年生まれの私の人生でも信じられない「夢のレンズ」が子どものおもちゃみたいにそこらにごろごろ置いてあるという気分になったのです。
でも、フジフイルムのそのカメラは2年もたずにキヤノンのSX60という60倍ズームのカメラに変わります。いまやテレビ用レンズでも世界に進出しているフジフイルムですが、技術者が出たとこ勝負で組み上げたと思われるデザインポリシーのない操作系や色表示に耐え難くなったのです。
以来、すでに4年ですかね、3万円弱で買ったカメラ1台ですべての写真を撮っています(最近ではiPhoneをサブカメラとしてうまく使うべきかとも考えていますけれど)。
1点何万円という仕事としての写真取材だったらいろんな状況をカバリングするために一眼レフカメラが必要になると思いますが、失敗を許される写真なら……接写でこれだけの写真が撮れちゃうんです。超望遠撮影での画像にはまだちょっと不満がありますが、それでもすごいレンズじゃないですか。

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時46分=伊藤 幸司=101
これまでカタクリの大群落なんかでは、ロングとアップの間に、三姉妹とか四兄弟というような小さなグループがどうしても欲しくなります。これはアカマツの木陰の三姉妹……になっているでしょうか。

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時49分=伊藤 幸司=106
4年前に訪れたときには樹間に黒い紗を張って、強い日射を避けている区間がありました。ここなんかはどうなんでしょうかねえ。クマガイソウが分布を広げているというふうに見られる場所ではないので、雑草がしだいに侵略を強めている光景、のように感じられます。
このような光景をどのような目で見るかというひとつの指針が、国立研究開発法人・科学技術振興機構からネット上に公開される学術論文にありました。福島大学の山下由美・佐藤晃平・佐藤なつき・兼子伸吾の調査報告で日本における絶滅危惧植物クマガイソウCypripedium japonicum Thunb.(ラン科)の生育状況と葉緑体 DNA の遺伝的多様性というものです。私には「共生システム理工学」という分野にかかわる部分に関してはチンプンカンプンですけれど、スッと入ってきた記述がありました。
———
■クマガイソウにおける保全上の留意点
クマガイソウは,盗掘の危険が極めて高いという点を除けば,様々な点で保全対策の費用対効果が大きい植物であると考えられる.個体数の増加に成功している集団があることは,適切な対策を実施すれば,クマガイソウの個体数の回復は可能であることを示している.
また,クマガイソウの保全を中心に据えた積極的な管理と言う点では,主な生育地がスギの植林地等,私有地内の人為的な環境であることも利点かもしれない.これらの生育地の多くは私有地であり,国立公園の特別保護地区や天然記念物のように,管理や管理手法の変更についての法的手続きを必要としない.したがって,地権者が合意すれば,盗掘防止のための柵の設置等の思い切った対策も即座に可能である.
園芸上の価値が高いという点も,盗掘の危険というデメリットがある一方で,保全対策を実施する上での活動団体の動機づけや保全の重要性のアピールという点では,大きなメリットである.したがって,ある程度まとまった個体数が生育する生育地においては,様々な保全対策を実施することによって,生育地における個体数の増加を目指すことが望ましい.
———

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時49分=伊藤 幸司=108
クマガイソウのすごいところは、これだけ目立つ花をつけながら、こんな密度でどんどん広がっていく集団の力ではないでしょうか。でも甘い蜜が蓄えられていそうなラン科の顔をした正真正銘ラン科の花でありながら、じつは蜜はないという。全員が蜜なしで虫を誘っているというふうに考えると、なかなかの悪の巣窟ではないんですかね。
入った瞬間「チェ!」とか言って出口を探す善良な虫に花粉をつけてもらうための仕掛けがきっちりと用意されているといいます。単独でそういう詐欺行為で生き抜けようとするのであればそれはそれでひとつの才覚といえるでしょうが、これだけ集まって、最盛期には3万株、いまでも5000株というのですから、ここでクマガイソウの詐欺に引っかかって腹を立てた虫がその後どんな顔つきで、どんな行動をとってきたのか知りたいです。

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時51分=伊藤 幸司=110
大群像としてのクマガイソウと、樹陰にひっそりと生きるクマガイソウ一家というイメージとはずいぶん違いますね。そういえば10時5分に見た民家のクマガイソウは全体としてはほんの小さな集団でしたが、ひとつひとつの顔つきのアップもあれば、小さいながら「群落」と呼べる広がりも感じました。一株でも決定的な存在感を示すことができるという自負心がないんでようか。

倉見山
【撮影】10時52分=伊藤 幸司=113
天は二物を与えずというけれど、花に加えて、葉っぱにもクマガイソウは抜きん出た個性を備えているみたいですね。私はコバイケイソウを知った最初のころ、その葉っぱが三宅一生の「プリーツ・プリーズ」に見えてしかたありませんでした。それに匹敵するようなこの葉は……何に見えるか人によって違うと思いますが、いろいろ探してみると祭儀に使われる檜扇の雰囲気かも。私は以前、隠岐の島で家族への土産に買ったヒオウギ貝を思い出してしまいました。

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時53分=伊藤 幸司=118
クマガイソウによる「第九・歓喜の歌」というふうにも見えますかね?

倉見山、クマガイソウ
【撮影】10時53分=伊藤 幸司=122
まあ、きりがないけれど、モデルさんを立たせて撮影をするとなると、ポーズやら表情やら、背景との微妙な関係とかをいろいろ撮っておくことになります。私は一時、当時大御所といわれた方の臨時助手をしたことがありますが、本業というべき有名寺社での仏像撮影では土門拳の神話的撮影につらなるのかな、と思うことがいろいろありました(そんなふうに考えていたので撮影に集中できないと強く怒られたこともありました)。でもその大御所先生がヌードカレンダーの撮影をしたときには、仏像撮影ではぐいぐい迫っていきたい迫力だったのが、苦手なヌード撮影では左右にあれこれ動きながらなんとか絵をまとめたいという雰囲気で、タオル持ちの私は「私もモデル撮影はダメだな」なんて思いました。そんなことを思い出してしまった写真です。

倉見山
【撮影】11時09分=伊藤 幸司=129
これはクマガイソウ群生地を出て、その脇からまっすぐ山頂を目指す無名の登山道を歩き出したところです。じつは4年前、このあたりにはこの道に「登山道」というような小さな標識があったように記憶しています。そのとき利用した地形図(1/25,000)にはこの道がはっきりと示されていましたから、流れとしては当然これを登るところでしたが、今「洞谷ルート」と呼ばれている堂尾山公園経由のルートには野生のクマガイソウがあると稲葉さんから強くすすめられたので、そちらに向かったのです。
ところが今回、その直登ルートを登ろうと思っていたら、標識らしきものがないのです。クマガイソウ群生地の受付テントで聞いてみると「町では登山道としておすすめしていません」という公式見解のみ。たとえば、途中でルートが崩落したりして登山道としての整備はしていないという状況のようでした。でも、最新のデジタル地形図にまったく同じ登山ルートが載っているんです。先に行けない場所があったとしても、それを体験するにはいいチャンスだと考えました。
そういう場合は「引き返す覚悟で進む」というのが基本的な姿勢です。その方針を私が変えないので「ええ〜っ!」というような反対意志も聞こえましたが、糸の会としては「偵察」という考え方を、ひょっとしたらいいかたちで体験できると思って、私はリーダー権限で「登る」と決めたのです。標高約700mから1,256mまで、標高差約550mですから引き返すとなったら簡単です。
ちなみに、2018年の糸の会の地図には、この場所に「クマガイソウ園」という書き込みがあります。「クマガイソウ群生地」と「クマガイソウ園」との名称の違いにはなにかあるのかなと調べてみると、朝日新聞デジタルの記事が出てきました。「山梨)西桂町でクマガイソウが見ごろ」という記事です。
———山梨県西桂町倉見のクマガイソウ園が見ごろを迎えた。倉見山の登山道脇の斜面に約5千株が群生し、町によると23日に開花。最近5年間で最も早いという。———
いつの記事かというと2018年4月28日ですから、4年前にわたしたちが来た1週間前ですね。新聞記事ですから呼称については慎重に確認しているはずですから「クマガイソウ園」が正式名称と考えていいのでしょう。ところが、そこにある写真のキャプションは———例年より早く見ごろを迎えたクマガイソウ群生地=2018年4月26日、山梨県西桂町倉見———つまり「クマガイソウ群生地」なんですね。駅からここまでの道標を写真で確かめてみると(私の写真に写っている範囲では)すべて「クマガイソウ群生地」でした。
まあ、そういう混乱が残っていたのかな、4年前には、と思っていたのですが、西桂町のサイトで令和4年度 クマガイソウ群生地 公開(5/9開花情報更新)を開いてみると、なんと「クマガイソウ園・駐車場案内」というのが出てきました。小さな混乱なんですが、初めて調べているときには「群生地」と「園」がそれぞれどこにあるのだろうかとけっこう探し回ってしまいます。きっと整理しきれていない混乱なんでしょうけれどね。

倉見山
【撮影】11時12分=伊藤 幸司=131
いくぶん不安もあったからでしょうが、わたしたちをクマガイソウ園の上まで見送ってくださったのがこの方。円谷(つぶらやではなく、つむらや)清子さん。最後尾の私と歩きながらお経のようなものをつぶやいてくださったのです。後白河・二条・六条・高倉……なんていうので大河ドラマにからむ平家物語の一節かな、と思ったりしているうちに仁孝・孝明・明治・大正・昭和となって「歴代天皇よ」というお見送り。「総理大臣もできます」とのこと。さすがに名刺をいただいて、何者かと思ったら、クマガイソウの群落をひとりでコツコツと増やして3万株にまで増やした旧農林省職員だった池田正純さんの娘さん。でもそのことは1行もなくて「一般財団法人健康・生きがい開発財団認定・健康生きがいづくりアドバイザー・健康生きがい学会会員」「劇団にしかつら団長」「サークル笛の音 司会・朗読」「悔いなき人生のクラブ 主宰」「戦争体験を語る集いの会 会長」「龍生派花道 家元教授」なんだそうです。
おいくつだか聞きそびれたのでネットで調べてみると毎日新聞の2020年5月5日の記事に「今年は写真で楽しんで」一般公開中止のクマガイソウ、自宅ギャラリーで展示がありました。72歳とのことですから今年74歳……なんですね。すみません、調べちゃったりして。

倉見山
【撮影】11時14分=伊藤 幸司=133
円谷清子さんの見送りをいただいて遅れたので前方にかすかに見えた後ろ姿を追うと、ここを進んでいったのですね。最初がこんななら、早晩引き返すことになるかな、という感じがしました。あっさり戻ってくると残りの時間でどうするかも考えなくてはならない……と、ちょっと憂鬱になりましたね。

倉見山
【撮影】11時15分=伊藤 幸司=135
でも追いつく前に、道は完全な尾根道になりました。これなら地形図のとおりだから、もう道迷いの心配は薄れ、あとは道が崩れたとか、通行止めになっているとか、なにか異変が出てきて「登山道」から外れたとかが、あるいは待っているかもしれないと警戒するだけです。

倉見山
【撮影】11時18分=伊藤 幸司=139
春のリンドウです。問題はこれがハルリンドウなのかフデリンドウなのかですが、正直なレポートがありました。吉岡裕也@HONDA新聞のハルリンドウとフデリンドウの違い?♪です。
———
*ハルリンドウの根元にはロゼットが有ります(根元の違い)
*フデリンドウとハルリンドウの葉が少し違います
*これは個人的な見解ですが、ハルリンドウの花が色が濃く大きい気がします
皆さんは違いが分かりますか?
私は実際 すぐには見分けられません (^^;
でもどちらも春に咲く小さい可愛い花で 私は大好きです! (^^♪
———

倉見山
【撮影】11時23分=伊藤 幸司=143
こういう道で、先頭が10分ごとに交代します。先頭のひとりひとりに道筋はどう見えているのでしょうか。
もちろん最後尾にいる私は神経質になりますが「10分交代」が原則ですから責任者としての私がルート選択の間違いに気づいたとしたら、そこから「10分以内」戻って正せばいいのです。
残念ながら糸の会の行動原則は「登山道を歩かせていただく」としていますから標識の見落としや、道筋の見通しの甘さなど初歩的な目配りのミスで起こるだけです。
逆に言えばそういう初歩的な「ルートハンティング」の体験はチーム登山では新鮮なはずですし、判断のすべてをリーダーに預けてしまったフォロワー(メンバー)には縁遠いことだと思うのです。登山道としての品質保証のないこういう道を歩く体験は(私が在籍した探検部では「偵察」と称して日常茶飯でしたが)だから、貴重だと思うのです。

倉見山
【撮影】11時24分=伊藤 幸司=145
ここで、私はひとつホッとしました。道に倒れ込んだ木に添えてある「登山道」というプレートです。
なににホッとしたかというと、もちろんこれが「登山ルート」に間違いないという確認ですが、重要なのは標識そのものです。紙にプリントして、それをプラスチックシートに挟んで、透明テープで止めてあります。
半端な作りで頼りないとは思いますが、その頼りないものが新品同様の状態でここにあるということは、今年か、去年、ここをそれなりに確立した「登山ルート」と表示したい人がいたわけです。古びた道標が立っているより、はるかに信頼できるシグナルだと思いました。これをここに張った人は、これを見た人を山頂まで導こうとしている、というふうに私は見たのです。ですからこの後、山頂まで行けるかどうかは私とこの標識の作者とのレベル比べの「挑戦状」でもあるんだと思いました。

倉見山
【撮影】11時27分=伊藤 幸司=149
こういう道は、足元だけを見ていると思わぬ間違いを引き起こします。だから最後部にいてもはるか遠くの「道筋」をさぐる努力は必要です。
このとき、私は「オヤッ?」と思って、とりあえず写真を撮っておいたのです。地形図上の道はかなり先まで尾根道です。なにがあっても左右を見下ろしながら一番高いところを進んでいけばいいのです。その道筋が正面に見えているのに、先頭はなにか、右手に進んで、巻道か、下る道へと入っていくような感じがしました。
なにか別の危険がかぶさってくるような予感がしたらここで「止まれ〜ッ!」とストップさせることもありますが、今回は「10分以内引き返す」ことで修正すればいいのです。
オリジナル写真で見れば、後ろから3人め、赤いザックの人の頭の先に太い枝を何本か並べて通行止めとしています。先頭の人はそれを見て、尾根道から巻道へと素直に進んだということがわかりました。
行動記録には「11時28分、標高約800mで右へトラバース、気温16℃」と書いてあります。デジタル地形図を見ると、標高800mの等高線のあたりでちょっと現実と違いますが、右に分かれる道が、以前からあった「登山道」を稜線からはずれる方向へ変更したのだと思われます。それを11時24分に見た「登山道」の表示の「最近」の情報と重ね合わせれば、ルートとしては安心してたどれると思うのです。ただ、登山ルートとしての難易度に関しては要注意かもしれません。

倉見山
【撮影】11時28分=伊藤 幸司=152
すぐにこのピンク色のテープが現れました。最近では林業の人たちもこんな感じの色テープを使いますから、以前は「赤布」といえば登山者に知らせるルート案内の印で圧倒的な信頼性を保っていましたが、かなりレアな山域では同じチーム内での通信としての赤布が除去されていず、誤ったルートに導かれるという危険も頭の片隅に置いておかなければいけないということはありました。それに対して現在では、登山者と林業者とが色とりどりのテープをそれぞれの目印として使っているようなときには、信頼のできる人たちの目印を早く見つけなくてはいけないのです。
……つまりこのテープがポンとひとつ出てきたからといって、私たちが必要とする目印なのかどうかは、しばらく保留しておく必要があるのです。

倉見山
【撮影】11時29分=伊藤 幸司=154
1分後、続いてまた「赤テープ」が出てきました。それも2本。これはどうも登山ルートを示すテープだと思いますが、2本というのはなんでしょうかね。さっきのが1で、これが2、という考えもあるでしょうし、道が滑落しそうな斜面に面しているという注意信号という考えもあるでしょう。
そういう予測が稚拙だといわれるかもしれませんが、この赤テープを張った人が「初心者に親切」と考えて注意信号を2倍にしたのかもしれません。そういう不可思議な意味も保留して先に進みます。

倉見山
【撮影】11時30分=伊藤 幸司=156
地形図上のルートと同じだと思いますが、それであればゆっくりと標高950m等高線まで登っていって、小さな沢にぶつかるみたいです。そこに行けば、また先がわかるだろうと思います。

倉見山
【撮影】11時45分=伊藤 幸司=161
しばらくすると、急登がありました。斜面の角度はこの写真を分度器で測って30度です。そこをジグザグの道で20度程度に抑えるというは富士山の登山道の基本的な設計で、私が日本の登山道の標準と考える道つけになるのですが、ここでは30度の傾斜面を直登ですね。「何事?」という気持ちでこの写真を撮っています。

倉見山
【撮影】11時46分=伊藤 幸司=162
これがその30度の斜面の直登です。登りでは「ストックを後ろについて、腕の力で体を垂直に持ち上げるサポートをする」というつもりで撮ったのですが、手前のスギの木にピンクのテープが3本ありました。道案内のワン・ツー・スリー、という3番目みたいですね。木に巻きつけてあるポリプロピレンの荷造りテープは鹿よけですね。いろいろ試みてきて、これが一番合理的な方法だとして普及してきた方法のようです。

倉見山
【撮影】11時46分=伊藤 幸司=165
ご苦労なことに、折り返しても急登は続きます。登山道としてはちょっと例外的。クライマーたちのアプローチの道か、林業関係者やキノコ採りの地元住民の通勤ルートのような感じです。
あまりにも突然の急登なので、あちこちから「休憩」という声が上がって「1155-1205休憩」になったのです。

倉見山
【撮影】12時06分=伊藤 幸司=167
休憩が終わって歩き始めるとすぐその先で斜面を左に登り始めることになるのですが、それは地形図で道が沢にぶつかって、標高950m等高線をたどるように渡渉するところでした。ただそこからは左手への斜面を登って地形図上に描かれた稜線の道へと向かうようになるのです。

倉見山
【撮影】12時08分=伊藤 幸司=170
沢沿いに登る道に入ったところに、この標識がありました。これもいかにも「有志の手づくり」で、建築用の鉄板を切って、ペンキで書いた「倉見山」の標識です。 私はこれで一安心。山頂へと導いてくれるルートに間違いはないのです。おまけにこの雰囲気からして(なぜか)難易度の高いルートではなさそうだという感じもしました。

倉見山
【撮影】12時14分=伊藤 幸司=176
標高950mのところから谷筋の手前を登ったあと、道はいくぶん軟弱な登山者向きの緩やかな勾配になりました。

倉見山
【撮影】12時18分=伊藤 幸司=180
ここでわたしたちは尾根に出ました。真ん中のスギの枝元にこれまで見てきたピンクテープがチラリと見えていますが、ここにある黄色いテープは下ってくる登山者がこのまま尾根筋をダダーッと下ってしまうのを防ぐために、下山路を示しているものでした。その下山路は右側の黄色いテープの先に延びている道ですから、このテープがなければほとんど見逃されてしまいそうです。

倉見山
【撮影】12時33分=伊藤 幸司=194
尾根に出ると、ガラッと変わったのは植生です。針葉樹林の植林地から広葉樹林に変わりました。それだけで「来てよかった」なんていう気分になります。杉林がどこへいってもお化けの出そうな雰囲気だったころにはさすがにイヤだナアという気分になりましたが、最近では手入れの行き届かない荒れた植林地でもそれほどのところはなくなって、むしろ人工林から自然林へと出た瞬間の嬉しさを感じるようになりました。
でもこのあたりになるとどんどん傾斜が急になっていきます。尾根道は尾根の傾斜を馬鹿正直に登る感じになりやすいので、キツくなる傾向もあるのです。山容を麓から見上げたときの記憶がよみがえってきます。

倉見山
【撮影】12時34分=伊藤 幸司=195
富士山も見えました。昼を過ぎていままだ山頂部が見え隠れしているというのはラッキーです。山頂からの展望をまだ期待できるといううれしい気分になりました。

倉見山
【撮影】12時36分=伊藤 幸司=198
ミツバツツジも咲いていました。頂上稜線という雰囲気の岩っぽいところにポツンと出てくる雰囲気がいいですね。

倉見山
【撮影】12時37分=伊藤 幸司=200
だんだん岩稜という雰囲気になってきました。足場の問題より、高齢登山者にはやはり勾配が心配です。前の人についていこうとすると自分のペースが崩れますから、脚を頭で働かせようとすることになります。
わたしたちの「10分交代」では、ペースが遅くなる人がそのペースを維持する権利を行使できるという考え方……ではあるのですが、コトバではそういっても、実際にはペースの遅い人にそれなりのストレスはかかってきます。
じつはここで私はちょっと甘い見通しでした。地形図の高度50mごとの等高線(計曲線)と交差するごとに現実なら直径100mとなる円を描いてありますからその円が接していれば距離100mで高度差50mとなって、勾配は1/2、50パーセント、約30度(26.6度)となります。つまり富士山の斜面を直登する勾配なんですね。それが山頂稜線に出る1,150mと1,200mの2つの等高線の間だけなので最後のどん詰まりだけ、と思っていたのですが、その手前から思わぬ急斜面が登場したのです。

倉見山
【撮影】12時41分=伊藤 幸司=202
こういう道は、余力があれば楽しいんですけれど、けっこう、あちこちからしんどそうなつぶやきが漏れてきます。脚力の差がどの基準でかわかりませんが、はっきりと出てくる急登です。私もちょっと息切れして、反省です。

倉見山
【撮影】12時43分=伊藤 幸司=203
こういう道の、こういう枯れ葉は、足元が見えにくいということで不評が多いのですが、わたしは好きです。枯れ葉に足を取られるようなふかふか感が、山ならではのものだと思うのです。下に不安定な石ころが隠れているのは、歩き方を丁寧にさせてくれます。安全なところで難易度を高めてくれるという意味では雨や雪と同じです。隠れた価値は歩き方をシェイプアップさせてくれるという点だと思います。

倉見山
【撮影】12時49分=伊藤 幸司=207
ここで初めてシカの糞を見ました。いるんですね、やっぱり。

倉見山
【撮影】12時50分=伊藤 幸司=208
さすがに、みなさんバテバテの休憩となりました。12時50分からの5分休憩です。私の高度計では1,220mでしたが、山頂で調べてみると35mオーバーでしたから1,195mでしたね。スマホの高度計でも調べておきたかったところです。登りきった稜線は地形図では1,220mですから高度差であと35mほどのところです。
休んでいる人の様子を見れば、普通ならさらに5分を追加して10分休憩とし、さらに必要だと思えばあまり意味のないリーダー講話みたいなことで5分〜10分だらだらと引き伸ばすところですが、なんツーたって、もう頂上直下です。5分休憩で出発することにしたのです。それがまちがいのもとでした。

倉見山
【撮影】13時05分=伊藤 幸司=211
これは1300−10分の出来事の写真です。Iさんの足がつったのです。水分不足やナトリウム、カリウムなどの欠乏などが影響しているともいわれますが、芍薬甘草湯がらみの薬に速攻効果があるというのもすでにみなさんよく知っています。しかし私は、びっくりして緊張している筋肉を大げさにほぐしてやるのが重要だと思っています。
そこでみなさんにさらなる休憩をしてもらって、脚をマッサージ、どこがどうこわばっているのか確認してもらいます。
基本的にはびっくりしてしまった筋肉を緩め、血流を回復するためにストレッチとマッサージをおこなうということですが、じつは私はそういう手順を学ぼうという気はありません。要するに自分自身の脚が他人のようになったところから自分のものとして取り戻す過程を自分のこととして体験できればいいのです。山で足をつった人は何人もいますが、10分かければおおかたもとに戻りますし、自分の足にムリな仕事をさせたことを反省しさえすれば、後腐れはないのです。自分の体を自分でケアできるかどうかの一線を越えた体験こそが貴重なので、他人が直して自慢することではないのです。
結局、皆さんには1250-55の休憩のあとで1300-10の休憩を加えたことになりました。
ただ、その後Hさんの足がつり、皆さんには先に行ってもらって軽いマッサージを加えました。

倉見山
【撮影】13時16分=伊藤 幸司=213
これが稜線まであとひと登りというところです。フデリンドウですかね。

倉見山、富士山
【撮影】13時25分=伊藤 幸司=215
先に行った皆さんは13時18分に稜線の見晴台に出たようですが、最後尾のわたしたちは25分の到着でした。富士山がまだ富士山らしい顔つきで正面にありました。

倉見山
【撮影】13時29分=伊藤 幸司=222
地形図によると標高約1,220mの見晴台から10mほど下がって、1,256mの山頂まで登り返します。けっこうな下りと登りですけれど、目の前に山頂が待っているのですから、気持ちは全然ちがいます。

倉見山
【撮影】13時51分=伊藤 幸司=237
山頂には10分滞在しましたが、眼前に富士山があるだけでずいぶん豊かな10分でした。

倉見山、富士山
【撮影】13時51分=伊藤 幸司=240
倉見山山頂を去るときに、ひとり戻って富士山を撮りました。

倉見山、富士山
【撮影】13時52分=伊藤 幸司=242
再度振り返ると、山頂の一部が雲から抜け出ているように思いました。なんだかしょうのない癖ですが、山頂が見えていたらしつこく撮ってしまいます。そんなのは富士山専門の人にまかせておけばいいのに、と思いますけれど。

倉見山
【撮影】13時55分=伊藤 幸司=244
未練がましく山頂を振り返りました。それ以上でもそれ以下でもありません。

倉見山
【撮影】13時57分=伊藤 幸司=249
山頂は遠くから見て明らかに突き出しているところですから、待っているのは下りです。急な下りがあれば尖った山頂だということです。遠くから見たときの印象とだいぶ違いますけれど。

倉見山
【撮影】13時59分=伊藤 幸司=253
下りにとった厄神(やくじん)ルートは広い斜面を大きく左右に振れながら下っていきました。もっとも私はこの「厄神」というコトバにほとんど反応せずにいて、下りきったところで初めて、この「厄神」にドキッとさせられたのです。なんという名前なんだと。

倉見山、ヒトリシズカ
【撮影】14時02分=伊藤 幸司=255
下りの主役はヒトリシズカでした。じつは一時期このヒトリシズカに夢中になって、あちこちの山で出会っていたのですが、その後とんと出会わなくなりました。じつは山で足元の野草に目を向けるようになった最初は、ヤブレガサでした。新しく買った図鑑の最初のほうにあってそれを探してみるとけっこう見つかるじゃないですか。ずいぶんあちこちにあると思っていましたが、ここ10年ほどはまったく見た記憶がありません。見つけようとしないと見つからないんだと思っています。ヒトリシズカもここ10年は見た記憶がほとんどありませんが、今回は向こうから押しかけてくるようにそこにあったのです。

倉見山
【撮影】14時05分=伊藤 幸司=258
この斜面は写真で見ると30度、部分的には40度ありますね。その40度という傾斜面は、ごく大雑把に言えばスギなどの植林地のほぼ最大傾斜と考えていいのではないかと思います。たとえば沢登りで源頭に達すると、まともな森林は終わりつつあって、灌木林や草原になっていきます。クマの菜食場なんていわれるところでもあります。そして岩場になるのです。
じつは国土地理院の地形図では傾斜が60度を超えると等高線では描けなくなるということもあって岩場の記号になってしまうのです。日本の山では40度の斜面というのは植生にとって重要な切り替えポイントといえるかと思うのです。
ともかく40度の斜面がこんなふうに広々と残っていたために大きなジグザグ道となったのだと思いますが、この斜面がほとんど侵食されずに残っているのに驚きました。登りで体験した30度の斜面の一気登りと、こちら側の40度の斜面のZ下りとで私の倉見山はずいぶん違う顔つきになったと思います。

倉見山
【撮影】14時08分=伊藤 幸司=260
地形図で見ると稜線にあった標高1,250m等高線から1200mの等高線の少し下までジグザグ道だと示されています。それがさっきのZ道、ウクライナ侵攻のロシア軍戦車の通路みたいな感じでもありました。登りのときの最後はそれとほぼ同じ傾斜面でしたが岩っぽく、私たちは直登させられました。
これはその下。標高1,150mの前後はこんなおおらかな下りになりました。地形図上に描いた直径100mとなる赤丸を、標高50mごとの等高線(計曲線)との交点に置いてみると、50/200、1/4、0.25という勾配になります。約15度です。登りと下りのどちらでも、ということでは、いちばん気持ちのいい勾配ではないかと思います。

倉見山
【撮影】14時12分=伊藤 幸司=267
下るに従ってまろやかな尾根道になります。傾斜もすこし急になって、ゆるやかにジグザグを切り始めます。足元に不安がなければ、どんどん下れます。ここでは確かめませんでしたが、私の高度計では400m/h〜500m/h、すなわち毎時高度差400〜500mという降下速度を示していたと思われます。私たちはそれほど速くはありませんから。
ちなみに登りは標高約700mから山頂までの標高差約550mを、休憩を入れて約150分、下りは70分となりました。登りでは休憩時間が30分弱ありましたが、下りでは一度も休みませんでした。急いで体に負担をかけたり、転ぶ危険を増やしたりしなくても、歩きやすい道ならスピードは上がるのです。

倉見山、ヒトリシズカ
【撮影】14時13分=伊藤 幸司=269
もちろんこれはヒトリシズカですけれど、葉っぱがわずかに開き始めたあたりが独特なんですよね。これはもうギラギラとした一般の野草です。

倉見山、ヒトリシズカ
【撮影】14時13分=伊藤 幸司=270
これは普通のヒトリシズカですが、倉敷市の重井薬用植物園のおかやまの植物事典で地元の「キビヒトリシズカ」について熱く語っています。じつは私自身、ヒトリシズカとの差異い関してはほとんど理解できないのですが、植物分類では最低限必要な「超えるべき一線」なんでしょうね。……という意味でぜひ紹介させていただきたい解説だと思いました。
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キビヒトリシズカは、中国地方を中心に、近畿地方と四国の一部から九州北部の明るい林のなかや林縁などに生育する高さ30~50cmほどの多年草です。日本国外では、中国と朝鮮半島南部にも分布します。4~5月頃、2~3対の葉の付いた茎の先端に試験管ブラシのような穂状の花序をつけます。花弁(花びら)のように見える白いひも状の部分は、花弁ではなく、花糸(雄しべ)の一部(花粉を出す「葯」を隔てる「葯隔」)が伸びたもので、本種の花には花弁はありません。このような花を「裸花(無花被花)」と言い、センリョウ科やドクダミ科などの植物の特徴です。
同属のヒトリシズカ C. japonicas と姿かたちはよく似ていますが、ヒトリシズカは葉の表面に明らかな光沢があるのに対し、本種の葉には光沢が無いこと、葉の先端の形状が本種よりもヒトリシズカの方が細く尖る傾向があること、ひも状の花糸の長さが本種は0.8~1.2cm程度なのに対し、ヒトリシズカは0.3~0.5cm程度でやや太い印象のため、見分けはそれほど難しくはありません。ただし、葉は本種も展葉初期にはやや光沢が見られるほか、花糸の長さは生育環境によって変化することがあります。決め手になるのは、花糸の基部にある「葯」の数で、本種は基部中央に2個、両側に1個ずつの計4個あり、柱頭(雌しべ)は、雄しべの基部の後ろに隠れて見えません。対してヒトリシズカの葯は中央にはなく、両側に1個ずつの計2個で、柱頭は雄しべの基部から外部から見える状態で突き出しています。
地下には短い根茎があり、白色~淡褐色の根があります。根茎は下部が大きくなると、しばしば株分かれで増殖します。根には強い芳香があり、鉢やポットに植えていたものを植替えなどの際に根をほぐすと、むせかえるほどの強い香りがします。「吉備」でないヒトリシズカの植物体もよい香りがするため、乾燥させてお茶として飲んだり、若葉を山菜として利用したりすることもあるそうですので、本種も同様に利用できるのかもしれませんが、本種はヒトリシズカ、フタリシズカに比べて花が派手なためか、園芸目的で乱獲されることも多く、生育地適地である明るい二次林が里山利用の停止による植生遷移または宅地などの開発行為によって減少していることとも相まって、絶滅が危惧されており、とても山菜としての利用ができるような状況ではありません。
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倉見山
【撮影】14時14分=伊藤 幸司=272
トリカブトもたくさんありました。広大な斜面一面にこのサイズのトリカブトが広がっていたのですが、なんとなくパスしてしまい、ここであわてて撮りました。まあ、ドクゼリ、ドクウツギと並ぶ日本の三大毒植物だそうですが、もちろん薬草でもあるわけですよね。ウィキペディアのトリカブトによると、———漢方ではトリカブト属の塊根を附子(ぶし)と称して薬用にする。本来は、塊根の子根(しこん)を附子と称するほか、「親」の部分は烏頭(うず)、また、子根の付かない単体の塊根を天雄(てんゆう)と称し、それぞれ運用法が違う。強心作用や鎮痛作用があるほか、牛車腎気丸及び桂枝加朮附湯では皮膚温上昇作用、末梢血管拡張作用により血液循環の改善に有効である。
しかし、毒性が強いため、附子をそのまま生薬として用いることはほとんどなく、修治と呼ばれる弱毒処理が行われる。———そうです。

倉見山
【撮影】14時15分=伊藤 幸司=274
下るに従って新緑の森になりました。なんとまあ、輝くような緑ですね。なんだか嬉しい気持ちになりました。じつはここにどんな木があるのかまったくわかりません……ですけれど。

倉見山
【撮影】14時15分=伊藤 幸司=275
なんともまあ、いろいろな緑がひしめき合って新緑なんですね。むかし、美術系大学の出身者が色の違いを驚くほどこまかく見分けているのに驚いたことを思い出しました。そこで「緑色」で検索してみたら、「伝統色のいろは」というサイトに「緑系」の日本の伝統色「82色」の一覧というのがありました。とりあえず名前のみ、一覧してみます。サイトにはパソコンで見られる「色コード」もあります。
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■翠色-Suishoku■青柳-Aoyagi■柳色-Yanagi-iro■山藍摺-Yamaaizuri■市紅茶-Shikocha■山葵色-Wasabi-iro■殿茶-Tonocha■花萌葱-Hanamoegi■深碧-Shinpeki■若葉色-Wakaba-iro■薄緑-Usumidori■花緑青-Hanarokusho■緑青-Rokusho■若菜色-Wakana-iro■鮮緑-Senryoku■若緑-Wakamidori■鸚緑-Ouryoku■深藍色-fukakiaiiro■裏葉色-Uraha-iro■薄柳-Usuyanagi■孔雀緑-Kujakumidori■織部-Oribe■若芽色-Wakame-iro■蒼色-Soushoku■若草色-Wakakusa-iro■鴨の羽色-Kamonoha-iro■柚葉色-Yuzuha-iro■柳緑-Ryuuryoku■草色-Kusa-iro■黄浅緑-Kiasamidori■碧色-Hekishoku■青漆-Seishitsu■老緑-Oimidori■左伊多津万色-Saitaduma-iro■胆礬色-Tanba-iro■裏葉柳-Urahayanagi■山鳩色-Yamabato-iro■柳煤竹-Yanagisusutake■天鵞絨-veludo■若苗色-Wakanae-iro■海松色-Miru-iro■柳染-Yanagisome■御納戸茶-Onandocha■松葉色-Sensaicha■仙斎茶-Sensaicha■藍媚茶-Aikobicha■青白橡-Aoshirotsurubami■麹塵-Kikujin■薄青-Usuao■裏柳-Urayanagi■沈香茶-Tonocha■虫襖-Mushiao■老竹色-Oitake-iro■金春色-Konparu-iro■浅緑-Asamidori■苗色-Naeiro■秘色-Hisoku■常磐色-Tokiwa-iro■青磁色-Seiji-iro■威光茶-Ikoucha■鶸色-Hiwa-iro■柳茶-Yanagicha■苔色-Koke-iro■木賊色-Tokusa-iro■鶸萌黄-Hiwamoegi■高麗納戸-Kourainando■千歳茶-Senzaicha■岩井茶-Iwaicha■梅幸茶-Baikoucha■緑-Midori■萌木色-Moegi-iro■萌葱色-Moegi-iro■萌黄色-Moegi-iro■鶯色-Uguisu-iro■青緑-Aomidori■新橋色-Shinbashi-iro■白緑-byakuroku■青丹-Aoni■千歳緑-Chitosemidori■若竹色-Wakatake-iro■青竹色-Aotake-iro■深緑-Fukamidori
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倉見山
【撮影】14時15分=伊藤 幸司=276
トリカブトが先頭を走っているらしいのですが、これからこの、カラマツの葉が堆積して日当たりもいいこの場所で、どのような生き残り戦争が始まるのだろうかと思ったのです。日向と日陰、光と影がドラマチックな今年の展開を予感させますね。

倉見山
【撮影】14時15分=伊藤 幸司=277
歩きやすい道ですね。雨の日などは足元がぐちゃぐちゃすることもあるでしょうが、滑って不安というようなことにはならないように思いました。ダブルストックを持っていれば季節と天気を選ばないと感じました。。

倉見山、ヒトリシズカ
【撮影】14時17分=伊藤 幸司=280
この群れはすこし生育が遅いようでした。右端には葉が開き始めたヒトリシズカがありますね。今となってはしゃがんで接写しておきたかったと思いますが、歩きながら見下ろしてカシャッと1枚撮って終わり。振り返ってみれば疲れていたのでしようね。名前もわからない小さな花を探してみるというような無駄な努力もしませんでしたし。

倉見山
【撮影】14時18分=伊藤 幸司=283
下っていくと、またアカマツの林になりました。……また、というのは登り始めにもこういう雰囲気のところがあって、その道が正規の登山道となっていない最大の理由は、マツタケ山だからではないか? というつぶやきがありましたよね。
じつは私は登山道がマツ林に入り込んだら、気合を入れて周囲を眺めてきました。もし(万にひとつでも)頭を出したマツタケがあったら、その日の行動は一時白紙に戻して、地面からまだ頭を出していないマツタケがあるかもしれないから「松茸刈り」にしたいと夢見てきたのです。
ところがじつは登山道の周囲にあるマツ林はいま、ほとんどが藪になっています。
2011年8月9-11日の「仙丈ヶ岳」の前泊として伊那市の「たかずや鉱泉」に泊まったことがありました。計画書には———頂上直下にある仙丈小屋に泊まることで3,000m峰を楽に楽しむことが出来るようになりました。北沢峠からゆっくりと登るために前泊を考えましたが、山麓に気になる宿を発見しました。伊那市側にある「たかずや鉱泉」です。ホームページを見ていただくとわかりますが、食事が魅力的です。腹ごなしに高烏谷山(たかずややま)山頂からの南アルプスと中央アルプスの展望を楽しみましょう。———と書きました。
しかし、じつは世田谷区で樹木ガイドになった国木田さんに、飯田はマツタケの産地であり、藤森昌弘さんという「マツタケ山作り」の指導理論に従っているはず、と教えられていたのです。案の定「たかずや鉱泉」にはその藤森さんの指導論文がありました。
で、1日目の高烏谷山登山は、立入禁止のマツタケ山を通り抜ける登山道をたどりました。マツタケ菌がシロと呼ばれる塊をつくる環境を整えるためには、下草刈りをしてほどよい明るさを維持するなど、周囲から強い菌が侵入してくるのを阻害しながら、マツタケ菌を育てなければならないというのです。薪炭林であったマツ林の環境を「手入れ」という労働で再現してやらなければならないという主張のようです。その結果として、平成16年(2004)に国土緑化推進機構(緑の募金)が「森の名手」として全国から選んだ100人のうちに、藤森昌弘さんの名(マツタケ関係ではただひとり)が登場したのです。その「マツタケ山」の素顔を私たちは見たんですね。詳しいことはなにもわかりませんでしたが。
でも、倉見山のマツ林は、たしかにそれを思い出す雰囲気でした。

倉見山
【撮影】14時19分=伊藤 幸司=284
ここではアカマツの若い木もどんどん伸びているようです。そういう光景にはホッとさせるものがあります。山梨県森林総合研究所の病虫害発生速報の中心は「松食い虫」です。2010年から2020年まで一覧できるページが開いたのですが、最新情報は次のようになっていました。
———松くい虫(マツノザイセンチュウ)を媒介するマツノマダラカミキリの発生が始まりました。5月18日に初発を確認しています。例年より12日も早い発生となりました。まだ、松くい虫の予防や駆除を行っていない場合は、急いで対応するようにしてください。お庭のマツの予防や駆除については、普及通信No.2を参照してください。———
首都圏の山ではどこでもアカマツの巨木がバッタバッタと倒されています。林野庁の関東森林管理局の松くい虫被害から森林を守るにその概要が書かれています。
———松くい虫被害は、マツノマダラカミキリという昆虫が、マツノザイセンチュウと呼ばれる線虫を媒介し、カミキリの成虫がマツの枝葉を食べる際に、付着した線虫が傷口からマツの樹体内に侵入し、水分の流動を妨げることで枯れてしまう被害のことです。
この被害は、1905年に長崎県で初めて確認されて以降、徐々に増加を続け、1970年代には全国で243万m3(住宅に換算すると約20万戸分)の被害を与えました。その後は徐々に減少を見せ、令和元年では30万m3とピーク時の8分の1程度となりましたが、依然として国内で最大の森林病虫害となっています。———

倉見山、ヒトリシズカ
【撮影】14時20分=伊藤 幸司=285
まだヒトリシズカが出てきます。同じ場所に出ていても、成長の差がずいぶん違うようですね。左のグループのその右側には葉が開き始めたばかりという感じのものがあります。もっと、もっと若い姿を見たかったのでは、ありますけれど。

倉見山
【撮影】14時20分=伊藤 幸司=286
これは、体験した人以外にはなかなか理解されないと思うのですが、一種、特別な瞬間の映像です。手前に下りの安全を確保するためにダブルストックで深い前傾姿勢をとっている人がいます。「三歩先にストックを突いて、1歩、2歩で立ち上がり、次の前傾姿勢をつくっていく」という、ダブルストックの一番価値ある使い方の写真なんですが、この写真はそれではありません。
前方に町並みが見えてきました。そこに向かって私たちは下りの最終段階に入ったという写真なのです。
もちろん小さな山ですから、登山道のいろいろな場所から下界が見えています。富士山から見下ろす下界と比べたら足元の具体的な町並み、家並みなんですが、多くの場合、下り斜面の中腹に、こういう瞬間が現れます。
なにが特別かというと、私たちはもう下るだけ、一気に下っていく、その家並みがくっきりと目に飛び込んでくる、一種「窓」のような光景です。ここはまだ町まで標高差で400mほどありますから家の一軒、一軒が目に飛び込んでくるという感じではありませんが「あそこに向かって下りていく」という見え方なんです。
さらにこまかくいえば「もう終わるの?」という印象の人もいれば「まだあるの?」と感じる人もいるでしょう。いずれにしても「あとは下るだけ」という終盤の始まりです。

倉見山
【撮影】14時21分=伊藤 幸司=288
見上げれば、桂川(相模川)の谷をはさんでお向かいさんの三ツ峠山です。あの稜線を左へ下ると河口湖です。雪のついた時期にはとても楽しい下り道です。

倉見山、三ツ峠山
【撮影】14時21分=伊藤 幸司=289
三ツ峠山のこの電波塔の感じ、つまり数本の電波塔が、ほどよく離れて立っているこの山頂の雰囲気が富士山の近くにあれば「三ツ峠」なんです。そういう意味で三ツ峠山は中央本線沿線の山の山頂から展望するときにはいいランドマークとなっています。三ツ峠山はその西に連なる御坂山地の起点というべき山ですし、桂川を挟んで東側には(ちょっとわかりにくいですけれどこの倉見山からつながっている)杓子山&鹿留山と石割山&御正体山が並んでいます。

倉見山
【撮影】14時22分=伊藤 幸司=291
足元の町並み、という感じの光景です。オリジナル画像で見ると、画面右側1/4あたり、低い松の木の先に見えるのは西桂町立西桂中学校の校庭と校舎です。画面左側1/3あたりに見える青い屋根は、グーグルマップによれば国道139号「富士みち」沿いに建つナメカワアルミの工場です。正式には滑川軽銅株式会社・富士工場で、ちょうどそこから富士吉田市になるんですね。
また寄り道ですが、滑川軽銅という会社を調べてみると、結構すごい会社みたいですね。会社案内のトップページで社長の滑川幸孝さんが———私たちは、将来の“ASIA No.1”を目指して、新たな会社創りを開始しました。———と語っています。本社は新宿住友ビルにあって、1991年に「国内初、アルミ6面フライス加工品アルフラットを発売」、1999年に「世界最高の高精度アルミ合金板として、ハイプレートをバージョンアップしたニューハイプレートを発売」「精密切断板ハイカットを発売」、技術力としては「滑川軽銅は自社で開発したフライス加工専用機により、4側面フライス加工品を国内で初めて商品化しました。現在では、長さ最大3,050mmまでのフライス加工を可能にしています。粗切から精密切断、フライス加工までの一貫加工によって、お客様の様々なニー ズに応えられます。」などと、私にはまったくチンプンカンプンですけれど、高精度の加工技術で勝負してきたという自負を感じますね。

倉見山
【撮影】14時23分=伊藤 幸司=292
この光景に、私はちょっと注目しました。おそらくそれほど遠くない過去に斜面の木々が切り倒されて、こういう道が出てきた……ということでしょう。
登山道はそれなりに踏み固められているので、もともと樹林の中にあったものが、白日のもとにさらされているだけ、というふうに見えます。植林地なら林業経営上の必要があったのだと思いますが、ここは自然林、昔なら地元の人の薪炭林であったかもしれませんが、わざわざ人手を加えて伐採した理由は何なのか、私にはわかりません。ただ、この踏み跡道を保護していただろうと思われる樹林が失われても、すぐに道を破壊するような雨水の浸食も見られません。もしこの状況を解説できる方がいらっしゃったら、ぜひ教えていただきたいと思ったので。

倉見山
【撮影】14時23分=伊藤 幸司=294
前の写真から1分経っていません。斜面に一定の幅の空間を、いくぶん防火帯の雰囲気でつくって、そこにこまかなジグザグの登山道を整備したという感じが見えてきました。
でもやはり不思議なことは、大雨の日に、ここに流れ込んできた水流が表土を削ったという雰囲気がありません。地形図で見ると標高1,000mから950mまでの間、これまでのジグザグ道から直線的に下る道に変わったとして描かれています。この写真の場所の標高を測ったわけではありませんが、登山道が尾根道から谷に下る変更地点の、デジタル地形図に出てくる「956m」地点まであと7分のところです。雨の日にもこの道は滑りやすくはならないのでしょうか。……じつはストックの突っつき穴があれば雨に弱い道、なければ踏み固められて強固となり、古道ともなりうる道とチェックできるともいえます。登山道としてのこの「厄神ルート」は全体としてなかなか個性的だと思うようになりました。

倉見山
【撮影】14時23分=伊藤 幸司=295
ここに写っている人物は全員今回のメンバーです。私が最後尾についていて、前に12人いるはずなので、写真右奥に見える人がトップというわけではないでしょう。10分交代でトップになった人は全体のペース配分など考えず、自分の一番楽しいペース、あるいは楽なペースを見つけるために自由に歩く権利を持っているとしています。この状態で見る限り、トップの人は足の早い人で、この道を翔ぶが如くに駆け下っていたのだと思います。そして2番手、3番手の人もここぞとばかり高速で追いかけていったのだと思います。
それでだれかがコケたりして全体としては事故るという懸念もあるわけですが、緊張感のある高速歩行では安易なミスはあまり起きないと私は考えています。疲れを感じながら前の人のスピードに引っ張られているようなときこそ危険なので、私は遅い人を、いつもとは違う遅さかどうか気をつけて見ているようにしています。たとえていえばボトルネックとなる人を見ていれば全体を把握できるという考え方です。……いずれにしても10分後には最後尾の人がトップとなって、新しい速度で全体が動くのです。

倉見山、ヒトリシズカ
【撮影】14時25分=伊藤 幸司=297
また、ヒトリシズカです。これで最後かな? と思うような登場でした。これまでと同様に私のイメージからすると十分年増ではありますけれど、ヒトリシズカの清楚さは感じられたひと群れでした。

倉見山
【撮影】14時27分=伊藤 幸司=300
下界がずいぶん近づいてきました。手前側に桂川が見えています。
山では確か、遠くにいる人の上半身がはっきり見えれば、つまり腕の動きが見えるような距離ならば「約500m」としていた時期があります。ここでは人の姿が人として見えるかどうか怪しいぐらいの距離でしたから山裾に見える家まで500m以上あるのは間違いないところです。
……と思ったのですが、じつは標高差が300m、地図上の水平距離が600mほどですから、桂川まで直線距離で650mほどですね、計算上は。オリジナル画像で見たら車のドアがひとつひとつ見えますから、本気で見たら人の上半身が見えたかも。

倉見山
【撮影】14時28分=伊藤 幸司=301
路面がぬかるみにならない限り、ものすごく歩きやすい登山道だと、改めて……。

倉見山
【撮影】14時30分=伊藤 幸司=303
ヒトリシズカと比べると巨大な若葉を私はトリカブトだと考えましたが、若葉のうちはニリンソウと区別がつかないだけでなく、混在していて葉っぱだけだと識別不能の時期もあるということです。ですからまったく自信がないし、根拠もないのですが、ここまで伸び上がってくるとトリカブトじゃないかな、と考えるのです。

倉見山
【撮影】14時30分=伊藤 幸司=304
この地点が、デジタル地形図にははっきりと描かれています。標高950mの等高線(計曲線)のちょっと手前で鋭角に曲がって谷へと下ります。地図上のその曲がり角を画面中央の+マークのところに移動すると「956m」と出ました。+マークを置くときのずれがあって968mとなったりもしましたが、950m等高線のほんのちょっと手前にこの道標があり、下り道は尾根道から谷道へと移動する斜面の道になるのです。

倉見山
【撮影】14時32分=伊藤 幸司=307
谷へと下る道は地形図で見ると尾根の標高約950mから谷の900mまで、標高差約50mを距離約300mで下ります。平均勾配10度の道ですから、尾根を下ってきた道よりはるかにゆるやかでした。

倉見山
【撮影】14時33分=伊藤 幸司=308
そこにまたトリカブトがありました。ネットで「倉見山・ニリンソウ」と検索すると出てきますが、もちろん「倉見山・トリカブト」も出てきます。夏になればこれが誰なのかはっきりするんですけれどね。「山は…どうだった?」というブログに9月12日の倉見山がありました。それによると———
・電車からの見た印象よりも、雑木が多い山だと思いました。
・トリカブトやミズナラなどが多いので、標高のわりに亜高山に近いと思いました。
・比較的植物が多く、春にまた来てみたいと思いました。
———とのこと。

倉見山
【撮影】14時33分=伊藤 幸司=310
とりあえずトリカブトのこの時期の葉の表情を撮っておきました。

倉見山
【撮影】14時35分=伊藤 幸司=312
尾根から谷へと下る道は、緑のかたまりの中に踏み込んでいく気分でした。

倉見山
【撮影】14時40分=伊藤 幸司=315
沢筋に下りると道は落ち葉に埋もれて、慎重な足さばきを求められる道になりました。落ち葉を蹴散らしながら歩く道は、山ならではの贅沢だと私は思っていますが、慎重に歩きたい人にとってはダブルストックの価値が最大値になる場面です。

倉見山、ヒトリシズカ
【撮影】14時41分=伊藤 幸司=317
これもヒトリシズカなんですね。あとで写真をよく見れば、左上と左下にこれまで見てきたのと同じ年頃のヒトリシズカがありますが、成長して別人のようになってしまったヒトリシズカがパッと目に飛び込んでしまいました。
穂状花序と呼ばれる、白い花をいくつもつけた花柄が1本ならヒトリシズカ、2本以上(しばしば4〜5本あったりしますが)あればフタリシズカだそうですが、成長したこの特段美的な印象のない葉っぱにパッと見1本の花柄を伸ばしています。
若いときの白いブラシのような花(花序)は花びら(花弁)がなくて、白い雄しべをむき出しにしている状態なんだそうです。そして大きく育ったこの状態では果実をつけているのだそうです。
私の記憶では丹沢山から三峰尾根を宮ヶ瀬湖へと下ったときと三頭山から陣馬山へと続く笹尾根とで、フタリシズカの大群落を見ました。ここまで育ってしまうとヒトリシズカとフタリシズカは花柄の本数以外はほとんど同じ顔つきで、かつ、特段目を引く特徴のない平凡な野草になってしまう、と思ってきました。
ひょっとしてここにはフタリシズカもあるのかな? と思って秋田さんに「フタリシズカですかねえ」とつぶやいたら、「ヒトリシズカですよ」とピシャリと否定されました。
それにしても、谷筋のほうが季節が早いんですかね。

倉見山、ヒトリシズカ
【撮影】14時46分=伊藤 幸司=320
ヒトリシズカは葉をここまで大きくしても、まだ花の状態なんですね。

倉見山
【撮影】14時47分=伊藤 幸司=321
沢筋の道はこんな感じで伸びていきます。
あえていうほどのことではないかと思いますが、思い出したので書いておきたいのは下山路での時間管理のことです。私は下山時にどこで時計を見るかには、かなり気を使います。
たとえばバスです。下山してからバス停まで歩いて、そこで待つバスは、たいてい1日に何本という便数です。それに乗れる可能性があるかどうかで時間に縛られることを嫌います。最後の段階で、こういういくぶん荒れた状態の道で「急ぐ」という判断はリーダーが犯す最大の危険だと考えます。
私たちはグループで行動しますし、時間が貴重ですから、いつもタクシーが視野に入っています。メーターが1万円以内なら予備的手段として事前に連絡先などをピックアップしておきます。
さらにその先、鉄道駅に出て、帰路の起点となる駅の時刻を考えながら入浴と食事を「できる・できない」まで含めて考えます。
タクシーを呼ぶ場合は、どこで電波が通じるかも考えて、事前に安全パイとして呼んでおくというケースも考えます。
行きあたりばったりでものすごい待ち時間が生じたときにでも、みなさん諦めているのか、表立った非難の声は出ませんが、私もお金をいただいているわけですから楽しめるハプニング以外は、できるだけ避けたいと考えています。
この日は出発点の三つ峠駅まで歩きますから、成り行きで問題はほとんどない……のではなくて、大問題を抱えていました。
というのは富士急行が問題、大問題なのでした。大月行きの電車は14時43分、15時43分、16時44分と、1時間に1本しかありません。選択肢としては15時43分しかないのですが、ほぼ1時間後です。この時点では三つ峠駅で余り時間がたっぷり出るようならどうしよう、と考えただけでしたが。
でも次に、千葉方面に帰る皆さんは19時08分に大月発の千葉行き特急あずさ50号を予定しています。食事は大月で食べられますが、入浴が問題です。以前、倉見山では下山路を葭池温泉駅にしていましたが、それはもちろん葭之池温泉で狭苦しいけれど入浴して、電車の時刻を見ながらできれば葭之池温泉の吉田うどん、という狙いでした。最近は都留市駅そばの「寄り道の湯」を第一候補としていますから、15時43分に乗れば16時07分着、入浴時間を1時間として17時31分の電車に乗れば18時04分ですから千葉行特急まで1時間の食事時間が得られます。
じつは後の話ですが、この日の食事は寄り道の湯の中ではなく、大月でもなく、隣りの店に初めて入って、その1時間での夕食をとることになったのです。
下りの最終段階では、そんなことをいろいろ考えながら歩いているので、リーダーとしての私は退屈はしないのです。(秋田さんは元旅行業界のプロ中のプロですから、私のそういう準備不足系の手配作業をイライラしながら見ている感じ、ありますけれど)

倉見山
【撮影】14時48分=伊藤 幸司=324
こういう道、私は楽しいのです。枯れ葉に隠された小石に足を掬われる危険がたっぷりありますが、腰を落としてつま先で探りながら歩くのです。歌舞伎では女形ほど筋力を使うそうですが、そういうしなやかで強靭な歩き方をさせていただける場面だと考えているからです。転ぶ危険はあっても、転落する危険はほとんどないと見てのことですが。

倉見山
【撮影】14時51分=伊藤 幸司=327
沢からすこし離れると植林地を抜けるおだやかな道になりました。人家の脇に出るまでにはまだちょっとありますけれど。

倉見山
【撮影】14時55分=伊藤 幸司=333
下山路の、これがひとつの区切りです。砂防ダムのたぐいが現れるんですね。するとかつて、この施設を建設するために用意した林道や、林道跡が出てくるんです。水の流れる川の勾配は登山道よりはるかにゆるく、林道の勾配だって14%(8度)を超えることは基本的にありません。そういう下界への関門として砂防ダムは出てくるのです。
じつはこのダムの入口で名称を見たら「厄神」とありました。まったくおかしな……というか恥ずかしいというか、その「厄神」という名前に突如ビックリしてしまったのです。すごい名前だ、なんだろう……なんて、そのコトバがひとつだけぐるぐると回り始めてしまったのです。
一番考えられるのはこの小さな流れに「厄神」というエピソードが潜んでいるのではないだろうか、という点でした。後で調べるとウィキペディアでは厄神が次のように解説されていました。———厄神(やくじん)は、災厄をもたらす悪神(疫神とも)と、厄除けの神(または仏)とがある。神社仏閣に祀られているのは当然厄除けの神や仏である。 厄神という言葉は以下のものも指す。———
いずれにしても、ちょっとむずかしい神様がここにはからんでいて、最終的に「厄神(やくじん)ルート」と呼ばれているというのです。それまでルート名の「厄神」については、文字面を見ているだけだったということになります。

倉見山
【撮影】14時57分=伊藤 幸司=336
砂防ダム(だと思ったもの)の下流側に回り込むと、今度はこんなものが現れました。私には初対面の、ひょっとするとこれが「厄神かな」と思うほど異様な物体でした。
これについても後で調べると「鋼製スリットダム」というコトバが出てきました。
日鉄建材という会社の鋼製スリットダムA型
———鋼製スリットダムA型は、土石流捕捉工として1976年 、日本で初めて建設省と共同開発された商品で、これまでに数多くの土石流・流木の捕捉実績があります。大雨や地震等で発生する土石流・流木を確実に捕捉、災害を未然に防ぐとともに、平常時の無害な土砂は下流に流し、下流の河床低下・海岸線の後退を防止します。また、河道を遮蔽しないことから魚類・水生生物・小動物等の往来が可能で環境・生態系に優しい商品です。———とありました。
さらに鋼製スリットダムAB型(改良B型)というのもあって———鋼製スリットダムB型は、1989年に開発されて以来、多くの施工実績・土石流捕捉実績を積み重ね、長年にわたり土砂災害の防止・減災に貢献してきました。鋼製スリットダムAB型は、近年の激甚化する災害状況や砂防施設の損傷事例を考慮して、鋼製スリットダムB型をバージョンアップさせた鋼製透過型砂防堰堤です。———とのこと。
ネット上の写真を見る限りでは、これが何型かはわかりません。

倉見山
【撮影】14時57分=伊藤 幸司=337
鋼製スリットダムのところから林道になりました。

倉見山、三ツ峠山
【撮影】15時02分=伊藤 幸司=343
富士山が見えたら当然、富士山を撮るところですが、正面に三ツ峠山があったので、歩きながら、躊躇なく撮りました。もちろん電線が入っていることも知りながら、です。

倉見山
【撮影】15時04分=伊藤 幸司=345
道は現役の林道になりました。部外者にもわかるような施設が上流側にあったわけではないので、これは日本国が経済的に豊かだった時代に、予算配分を将来型の課題に振り分けて、とりあえず舗装化した、という多くの林道の例に重なるのではないかと思いました。

倉見山
【撮影】15時06分=伊藤 幸司=346
こういうキノコは、初めて見ました。自分で見つけたものではないので、調べないでも待てばわかる、と思います。

倉見山
【撮影】15時06分=伊藤 幸司=347
待てばわかる、とは思いますが、アップも撮っておきました。

倉見山
【撮影】15時10分=伊藤 幸司=349
私たちは中央自動車道のところまで下ってきました。標高約650mのところです。「厄神社」という名の神社があっての「厄神ルート」だったということを(恥ずかしながら)そこで初めて知りました。

倉見山
【撮影】15時11分=伊藤 幸司=354
厄神社ですが、当然帰って一応調べてみると、岡山県倉敷市の厄神社がそれなりに有名らしく、神奈川県藤沢市の厄神社は東海道五十三次藤沢宿由来のもの、東京都府中市、山梨県山中湖村、とポツポツ出てきました。そのポツポツの間にたくさんならんでいたのは厄除けの効能をうたう有名神社群。厄除けだったら、神社に期待する基本的なご利益ですよね。
厄神社はもっとあるのかもしれませんが、一覧的に見られる情報は見つかりませんでした。もちろん、かなりさがしたら、この神社の情報も出てきました。
山梨県神社庁のコードNo.7126 厄神としてです。
———当社は天文二年三月、郷一帯に疫病の流行の時、武田信玄公此の地に祈願せられしとの古事に依り勧請す。———としています。
そして———
■鎮座地:南都留郡西桂町倉見186
■所属支部:南都留支部
■御祭神:素盞鳴尊
■例祭日:四月十五日
■宮司名:佐藤秀次
■境内地:七五坪
■氏子戸数:一四六戸  崇敬者数 三六人
———だそうです。
なお「崇敬者」というのは神道用語だそうで神社本庁の氏神と崇敬神社についてという長文の解説がありました。私はきちんと知りませんでした。
———
全国の神社については、皇祖(こうそ)天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする伊勢の神宮を別格の御存在として、このほかを氏神神社と崇敬神社の二つに大きく分けることができます。
氏神神社とは、自らが居住する地域の氏神様をお祀りする神社であり、この神社の鎮座する周辺の一定地域に居住する方を氏子(うじこ)と称します。
元来は、文字通り氏姓を同じくする氏族の間で、自らの祖神(親神)や、氏族に縁の深い神様を氏神と称して祀ったことに由来し、この血縁的集団を氏子と呼んでいました。現在のような地縁的な関係を指しては、産土神(うぶすながみ)と産子(うぶこ)という呼称がありますが、地縁的関係についても、次第に氏神・氏子という呼び方が、混同して用いられるようになりました。
これに対して崇敬神社とは、こうした地縁や血縁的な関係以外で、個人の特別な信仰等により崇敬される神社をいい、こうした神社を信仰する方を崇敬者と呼びます。神社によっては、由緒や地勢的な問題などにより氏子を持たない場合もあり、このため、こうした神社では、神社の維持や教化活動のため、崇敬会などといった組織が設けられています。
氏神神社と崇敬神社の違いとは、以上のようなことであり、一人の方が両者を共に信仰(崇敬)しても差し支えないわけです。
———

倉見山
【撮影】15時11分=伊藤 幸司=355
これが厄神社の75坪とされる境内地です。前の写真はこの位置から望遠で撮ったものです。……ということは、鳥居の奥に本殿があるんですね。

倉見山
【撮影】15時13分=伊藤 幸司=356
厄神社のお隣さんが、この神社。はるかに規模が大きいですね。白山神社とありました。せっかくですから厄神社と同じ山梨県神社庁のデータでコードno.7127 白山神社を見てみました。
———
■鎮座地:南都留郡西桂町倉見1029
■所属支部:南都留支部
■御祭神:伊邪那岐尊、伊邪那美尊、菊理姫命
■例祭日:四月十五日
■宮司名:佐藤秀次
■境内地:一〇三二坪六八
■氏子戸数:一四六戸  崇敬者数 三二人
———
これを見ると宮司さんと氏子はおそらく厄神社と完全に一致ですね。ただ崇敬者数は厄神社が36人ですから2人少ない……だけでなく、崇敬者の顔ぶれが同じだという保証はありませんね。
ちなみにウィキペディアで「山梨県の白山神社」と検索すると一気に19社出てきました。

倉見山
【撮影】15時15分=伊藤 幸司=360
いよいよ中央自動車道をくぐります。三つ峠駅発15時43分の電車は完全にOKという状態になりました。しかも無駄な待ち時間なしに。

倉見山、桂川公園
【撮影】15時22分=伊藤 幸司=367
ふれあい橋で桂川を渡って、5時間ほど前に歩いた桂川公園に入ります。

倉見山、桂川公園
【撮影】15時22分=伊藤 幸司=369
これが富士山の湧き水を集める桂川本流です。もう一度ウィキペディアで桂川を検索すると「桂川(かつらがわ、けいせん)」として20の名前が並んでいて、そのうち「一級河川の桂川」が14本、「二級河川の桂川」が2本、二級河川にも入らない小河川が2本あって、最後に残った2本のひとつがこの桂川なんです。
———桂川(相模川) - 山梨県および神奈川県を流れる相模川の山梨県域での呼称。相模川を参照。———とあります。
そして最後の1本は、———桂川(修善寺川) - 静岡県伊豆市を流れる狩野川水系修善寺川の通称。淀川水系桂川に因む。———とありました。そこで修善寺川で調べてみると———地元では桂川とも呼ばれ、同名の旅館も存在する。———とあって、正式の観光地図にも「桂川」と描かれています。
再びウィキペディアで相模川を見ると、次のような記述がありました。
———上流の山梨県では、桂川(かつらがわ)と呼ばれている。この名前は都留市、忍野村、山中湖村の境にある石割山にそびえ立つ石割神社の神木・桂の巨木から由来し、その後ろにある御釜石から湧き出ている水が相模川の1つの源流となっている。———

倉見山、三ツ峠山
【撮影】15時23分=伊藤 幸司=371
桂川公園に戻って、また三ツ峠山を見上げました。

倉見山、桂川公園、富士山
【撮影】15時23分=伊藤 幸司=372
桂川公園まで戻ると、また富士山が見えました。朝見たのとほとんど同じ富士山といえますが、朝夕同じ表情の富士山が見えたというは、ひょっとすると稀有なことではないでしょうか。

倉見山、桂川公園、タンポポ
【撮影】15時24分=伊藤 幸司=373
見た目全部がタンポポの花ですです。穏やかな光の中で、当面主役を張っていました。

倉見山、桂川公園、タンポポ
【撮影】15時25分=伊藤 幸司=376
この写真でわかることは、種が茶色いということだそうです。東京学芸大学小川研究室のタンポポの種類調べ先生方へというページに次のような解説がありました。
———
日本では外来種のタンポポのうち、実(痩果)の色が茶色のものをセイヨウタンポポ、桃色がかったものをアカミタンポポと呼んできました。しかし、原産地のヨーロッパでは、これらはさらにたくさんの種類に分類されています。日本に入ってきた外来種が、そのうちのどれかを同定するのは容易ではありません。また、2種類というわけでなく、もっと多くの種類が帰化していると考えられます。そこでこのホームページでは、「外来種」と表現しています。
———

倉見山、桂川公園、タンポポ
【撮影】15時25分=伊藤 幸司=377
前の写真で照会した東京学芸大学小川研究室のタンポポの種類調べ 先生方へにこんな文章もありました。
———
かつて日本のタンポポはたいへん多くの種類に分類されていました。その後、北村四郎さんにより22種類にまとめられましたが、個体変異がおおきく、1本の植物だけでは同定が困難です。日本各地の2倍体タンポポの集団は、個体変異を持ちながら、一部の他所の集団と共通する特徴を持つ個体を含みつつ、集団としての特徴をもっているということがわかってきました。したがって、地域に生えている集団としての特徴をつかまないと、名前を決めるのは難しいものです。たとえば、1980年のタンポポ調査のおりに東京の都心でエゾタンポポがあったという報告がありました。これはカントウタンポポの集団の中の、エゾタンポポと共通する特徴を持った個体がたまたま採取されたからと考えられました。それで、このホームページでは、日本に以前から生育してきたタンポポを「在来種」と表現しています。各調査地域で、どんな種類のタンポポが分布しているか、必要でしたら、お問い合わせください。
———

倉見山、桂川公園、タンポポ
【撮影】15時25分=伊藤 幸司=378
またまた東京学芸大学小川研究室のタンポポの種類調べ 先生方へからです。
———
在来種のタンポポのうち、平地に生育する黄色の花の在来種は、最近では1種類として扱われることが多くなりましたが、地方によって少しずつ形が変形しています。図鑑には、関西以西にカンサイタンポポ、東海地方にトウカイタンポポ、関東地方にカントウタンポポ、中部地方以北にシナノタンポポなどが分布していると書いてあります。新潟大学の森田竜義さんによると、これらの平地生2倍体種(染色体を16本もっているタンポポ)は1種類で、カンサイとカントウが亜種、シナノやトウカイがカントウの変種とするのが適当だそうです。また、北地や山地にはエゾタンポポという3倍体種が分布しています。
———
残念ながら、私には意味がまったくわかりません。先生方も大変ですね。

倉見山
【撮影】15時26分=伊藤 幸司=379
私がこの日、一番印象に残ったのはクマガイソウではなくて、往路目にしたこの柵でした。名称はたぶん「用水路転落防止柵」。農業地域で重要なインフラとなっている用水路は、たとえ浅くても構造的に落ちたら助からないという危険をはらんでいます。流されているあいだはスムーズでも、いったん立とうとすると、予想外の水圧がかかって蟻地獄状態になるように見えるのです。登山道で沢に落ちた場合には想像を超える不気味な危険がいろいろありますが、同時にいろいろな救いの手も差し伸べられます。
かつて私は川下りをやっていましたが、転落したボートから投げ出されたザックは、しばらく下った淀みで回収できるという河川の大原則があるのです。でも人工的な用水路ではそういう救いの手が差し伸べられる可能性はゼロに近いと思います。
つまり落ちたら死ぬ、と考えるべきものが、道際にあるのです。登山道より怖い道がそこにあるので、私は恐怖なしに歩けないという感じになります。
でも、三つ峠駅から桂川公園に向かう道筋には、この「用水路転落防止柵」がきちんと設置されていました。防止効果が100%ではないでしょう。だからここに見える隙間を埋める柵や、上から落ちるのを防ぐ柵も商品化されているようですが、ここの、この柵があるだけで私はこの道を危険を意識せずに自由に歩くことができました。そのことが、この町の豊かを感じさせてもくれました。

倉見山
【撮影】15時33分=伊藤 幸司=382
時間の読みというのはなかなか思い通りにはいかないものですが、ここではドンピシャにいきました。要は市街地の道だったからですが、電車の10分前に到着しました。私はこのあとトイレにも行けました。

倉見山
【撮影】15時39分=伊藤 幸司=385
三つ峠駅のホームから今降りてきた倉見山を撮りました。右の尾根からいくぶん大回りして山頂に至るのが「洞谷ルート」、山頂からこちらに向かって下ってくるのが「厄神ルート」で、私たちはその谷間からほぼまっすぐ山頂右手に突き上げていく小さな尾根を登ったのです。
でも、ホームからでは手前に邪魔なものがいろいろあって、当然ここに出せる写真にはなりませんでした。
その邪魔者ですが、右下隅には車窓からでもいつも気になっていながら正体がつかめずに、かつなぜか俗っぽくってきちんと撮ったことのないブロンズ像(かその模造)まで写り込んでしまいました。
その像の台座には、たしか「WELCOME TO FUJIGOKO」という、ある種意味不明、役割不明の文字列が円柱のおおよそ上から下まで、並べられていたんです。
その天使だか妖精だかの像は「ヤマノススメ」というコミック→アニメの三ツ峠山登山に登場するらしく、「聖地巡礼」の写真としてウェブ上に溢れているのです。
まずはそれらの写真キャプションをいろいろ見て回ったのですが、たとえば———駅前でいくつか写真撮影。天使の像はあえて全景を写しました。「WELCOME TO FUJIGOKO」とありますが、どういった経緯でたてられた像なのでしょうか。———というのが一番詳しいキャプションという感じ。ちょっと絶望的になりました。
その「WELCOME TO FUJIGOKO」をつくるには結構なお金か見栄かがからんでいるはずなので、どこかにもうすこしくわしい情報がないものか。……とひと頑張りすると、ありました。
「otauwohikki's diary キュレーション的な何か(備忘録)」というなんだか難しそうなサイトに富士五湖の妖精 2014-03-27がありました。
———平成3年(1991年)ごろ、「富士五湖・広域行政・事務組合」が、合併前の9市町村に各1基の、9基を、「アーバン」という会社に委託して制作してもらい、設置したという、「WELCOME TO FUJIGOKO (ウエルカムサイン)」と書かれた台座の上に乗る妖精(天使)の像(モニュメント)。———
そしてありがたいことに、その9体の妖精像をグーグルマップで見せてくれていました。
さらに、その9体を車で実際に目撃していくYouTube作品「秋葉仁の河口湖の周りに9人の妖精がいた」という動画もリンクされていました。
私はYouTubeをほとんど見ませんが、義務感でこの「17分03秒」の実況動画を見て、ユーチューバーと、その行動をリアルタイムで支える人たち(呼び方があるみたいですがわかりません)の連携のすごさを感じました。秋葉仁という人はプロなんですかね、キャンピングカーで突撃実況取材をやっていました。

倉見山
【撮影】17時48分=伊藤 幸司=389
16時07分都留市駅下車で「寄り道の湯」へ。それを軽い入浴として、17時から、昨年10月に隣にオープンしたという都留市唯一のじねんじょ農家の「じねんじょ亭」で夕食。残念だったのはアルコール飲料がなかったことですが、1,080円のB定食は「自然薯とろろ汁+麦飯+じねんじょ焼き+ふわとろ玉子焼き+お漬物+お味噌汁」。さすがに生産者が出すじねんじょだけに、ビール抜きでも許されるレベルではあったようです。

倉見山
【撮影】18時28分=伊藤 幸司=395
都留市発18時27分の電車で18時42分大月着。新しい電車のようでしたが、なんと床は板張り。その違和感で1枚写真を撮っておきました。
帰って調べてみると、あるんですね。「板張りの新型車両。抜け蔵…鉄道・高速バス、車内・座席写真のサイト」に富士急行6000形が。見る人が見ればすぐわかる「首都圏で活躍していたJR東日本の205系」なんだそうです。私にはもちろんわかりません。そして
———車内に入ります。内装で目に付くのは、床面に使用された木目でしょうか。この内装は、JR九州の特急車両の内装を手掛けた水戸岡鋭治氏が手掛けており、つり革や床材に木材が使われています。205系時代は「実用重視」一辺倒な感じの車内でしたが、内装に明るいカラーの木目を用いたことによって、車内は夜でもかなり明るい雰囲気に仕上がったように感じます。———
とのことでした。



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