山旅図鑑…て
天覧山(2020.6.24)
フォトエッセイ・伊藤 幸司

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糸の会(コロナとともに no.3)
2020.6.24
天覧山



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【撮影】11時32分=伊藤 幸司
西武池袋線の飯能駅を北口に出ると、こじんまりとしたバスターミナルがあって、奥武蔵の山に向かうには「さわらびの湯経由湯の沢行き」などを利用してきました。
私たちはとりあえずそこから出発したのですが、バスが出ていくこの道は「駅前通り」というらしく、この先に「飯能駅前」交差点があるのです。
市街地で登山ルートを確定するのはなかなか難しいので、うまく抜け出られればいい、という程度の目安で計画書に添えるシミュレーションマップにルートを書き込みます。
そこで次の「東町」交差点で左に曲がって、市街地の左上方という感じのところにある能仁寺を目指す、としたのです。
じつはトップの人たちが予定のひとつ手前の「飯能駅前」交差点で【左・能仁寺】という道標を見つけたので、私たちは「飯能銀座商店街」を抜けることになったのですが、いま写真を見ながら詳しく調べていくと、この飯能駅北口周辺の道はなかなか複雑なんですね。
じつは飯能駅北口から飯能駅前交差点まで、つまりこの写真に写っている道は【埼玉県道228号飯能停車場線】というのだそうです。『ウィキペディア』によると【埼玉県飯能市仲町の飯能駅から同「飯能駅前」交差点に至る、実延長127mの一般県道。】なんだそうです。まちがいではありません【127m】の県道です。
バス通りはその先は国道299号となるのですが、飯能市街では「駅前通り」と呼ばれているようです。秩父方面から西武秩父線に沿うように南下してきて「飯能駅前」交差点で「飯能銀座商店街」とは逆の東に折れて、西武池袋線入間駅前の河原町交差点で国道16号(東京環状)に接続して終わるのだそうです。ちなみに私たちも西武秩父線を利用するとき駅前で横断することもあるこの道について、『Motor-Fan.jp』に『酷道を知りたければ299を走れ!『酷道にして王道──国道299号線(酷道険道:埼玉県/長野県)』VWザ・ビートル』というレポートがあります。関心のある方はどうぞ。
ともかく、私たちは最初の信号のところで国道と出合うのですが、左にそれて「飯能銀座商店街」に入るのです。

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【撮影】11時35分=伊藤 幸司
この日は水曜日、この閑散とした光景はアベノコロナによるものなのでしょうか。
『飯能ぎんざ』というサイトがありました。
【私たち飯能銀座商店街は、緑と清流の街 飯能市にあります。西武池袋線「飯能駅」北口に84店舗が軒を連ねる昭和の雰囲気が残る活気ある商店街です。
1951年(昭和26年)に協同組合として創立し、当時は夏に「七夕祭り」、冬に「奥武蔵駅伝」と街の中心地として大変な賑わいを納めていました。
その後、1971年(昭和46年)より春には歌謡ショーの共同売り出しを30年以上に亘って行い、1991年(平成3年)に創立40周年を記念して行われた「ドリームフェスティバル」は、現在も「フレンドパーク」と名前を変えて夏の恒例行事として続いております。
近年は、昔ながらの商店街風景が残る街としてテレビ(市原隼人主演「猿ロック」)や映画(櫻井翔・福田紗紀主演「ヤッターマン」)、アニメ(ヤマノススメ)の撮影舞台としてもお馴染みです。】
ただ、一般的名称としての「飯能銀座商店街」は西武線の飯能駅とJR八高線の東飯能駅にリンクするかなり広範囲のもののようです。
『地域情報 itot(あいとっと)』に『飯能銀座商店街』がありました。
【「飯能銀座商店街」は、西武池袋線「飯能」駅北口から県道70号線までの間に広がる大きな商店街である。
全体はAからFまで6つのブロックに分けられており、約130の昔ながらの中小商店が軒を連ねており、飲食店・衣料品店などの生活必需関連のお店から石材店などのお店まで、およそ暮らしに必要なものはここに来れば何でも揃う。また、加盟店での買い物の際に提示すると、色々な特典を受ける事ができる『銀ギンカード』という共通サービスもある。
ちなみに「飯能」駅前通りを挟んで「東飯能」駅側のEとFのブロックは、東銀座通り商店街とも呼ばれている。】
この道一本の商店街ではなく、南北は飯能駅から東町交差点まで、東西は東飯能駅から広小路交差点までの広がり全体ということのようです。

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【撮影】11時37分=伊藤 幸司
この【木づかいの飯能銀座商店街】って何でしょう。そのまま検索してみると飯能市の『森と住まいの木づかいフェスティバル実行委員会』の『『第12回 森と住まいの木づかいフェスティバル』中止のお知らせ』が出てきました。アベノコロナによる中止です。
「木づかい」というのがキーワードなんですね。
その「木づかい」は埼玉県にもあって、さらに調べると2005年から林野庁が推進している【国産材の利用を推進するための国民運動】だとわかりました。
飯能市独自のものではなく、1997年に京都で行われた「地球温暖化防止京都会議、COP3」で採択された「京都議定書」にかかわる温室効果ガス削減のための林野庁主導の運動なんですね。知らなかった!
でも100万都市江戸の物流を支えた隅田川の上流域に当たる「西川材」の木材産地として、飯能は積極的に「木づかい」運動を展開しているようです。

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【撮影】11時43分=伊藤 幸司
ところどころに古い建物が残っていますが、これは吉田屋呉服店。建物に関する紹介データは見つかりませんでしたが、4代目社長の吉田行男さんのインタビュー記事がありました。
『奥武蔵まごころ.net 飯能』『奥武蔵まごころリレーインタビュー第2回』『株式会社吉田屋呉服店 代表取締役 吉田行男』
【■創業は明治7年とお聞きしていますが?――
そうですね。慶応4年(1868年/9月に明治へ改元)に『鳥羽・伏見の戦い』を皮切りに、全国へ広がっていった戊辰戦争で、この辺りでも『飯能戦争』があったのですが。当家はその復興期にこの地で旅館として商売を始めたと聞いています。しかし、残念ながら、記録として残っていたのが明治7年からしかないのでね。旅館から呉服屋になったのは明治40年です。私で4代目とされていますが、正確には5代目。2代目が32歳で早世したものですからね。
私は生粋の「飯能っ子」で、飯能幼稚園、飯能第一小学校・中学校、川越高校を卒業して、武蔵野美術大学で日本画を学び、お隣の日高市の高麗川中学校で4年ほど教鞭を取った後、家業の呉服店を継ぎました。
駅周辺の風景は随分と変わりましたが、周りの自然豊かな山も、森も、川も基本的には昔のままですよ。大学の恩師が飯能に来られた際に「急激に変わろうとしないところがいいね」と仰ってましたが、その通りですよね。それに、飯能の気質というか、昔からの人情もまだまだ残っていますから。でも、私がまだ幼い時に色町として栄え、所沢や川越などの近在からも多くの方がやってきた頃と比べると、活気はなくなりましたかね。その頃の活気とまでは行かないまでも、街をもっともっと元気にしなくてはね。】

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【撮影】11時43分=伊藤 幸司
これは「店蔵 絹甚」の内側です。
『店蔵 絹甚』のホームページがあります。
【飯能市の指定文化財「店蔵 絹甚きぬじん」は、平成19年度に復原修理工事が終了し、毎週水~日曜日に一般公開を行っています。
明治30年代後半に建てられた土蔵造りの店舗で、ほとんど改変を受けておらず、建築当初の様子を良く残しています。飯能市を代表する産業であった絹関連の買継商を営んだ建物であり、市の歴史を考えるうえで貴重な文化財です。ぜひご覧ください。】

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【撮影】11時47分=伊藤 幸司
新義真言宗 智山派 観音寺がありました。武蔵野三十三観音の第二十四番で、開創八十周年の総開帳が行われるということです。
真言宗は空海に始まる仏教ですが、「新義」とは何か、智山派とは何か、わかりません。
じつは糸の会を始めるまで、寺社で拝むということができませんでした。
アラスカの村では誰もがいつでも死ぬ運命を信じつつ、死んだら土饅頭に木の十字架を立てられて、それが朽ちたらもう存在は大地に溶け込んでいってしまう、というのに強く憧れました。
またアフリカのど田舎の土饅頭みたいなモスクで感じたのは強烈でした。なにもないゆえに無限の空間を感じさせる土作りのドームの中で、ただくぼみだけのミヒラーブに向かうと、だれもが神と直接会うことができているのではないか、と思いました。イスラーム教こそがすべての信者と神(アッラー)とがダイレクトに結びあえる宗教だと思いました。
しかしイランやイラクの有名なモスクでは神と繋がる前に聖人たちの墓があって(カトリック教会と同じみたいですが)田舎のモスクであれほど近い関係だった神との距離が広がったように感じました。
日本の神社では名前のわからない神様と親しく語り合うことが可能ですけれど、私のようにその神様と名刺交換したいと思うとなるととたんにあやふやになり、有名・無名の神様も学校で習った歴史上の人たちと同列だったりして、愕然としてしまいます。
インドでは、どの家にも家の神様がいて、それが村なら、村の神様がいて、人々は日々生活を清浄(清潔とはちがいます)に整えて暮らしています。以前糸の会に参加していた高橋健治さんが編集者として世に出した『わがふるさとのインド』(プラフルラ・モハンティ 著・小西正捷 訳・平凡社・1990)の村(オリッサ州)へ妻と出かけて、モハンティ(ロンドン在住)さんの甥の世話で泊めていただきました。村のインド人は「顔の見える神様」と毎日触れ合い、生活を清浄に保って生きていました。
それはたぶん、民俗学者の宮本常一が昭和30年代にガラガラと崩れていった日本の村の「神々との生活」に通底するものだったのではないかと思いました。
宮本先生と二人で旅した東アフリカの村々では、そのレベルでの信仰は(たぶん完全に)日常生活の中には見えなかったと思います。
ちなみに、日本の寺が江戸時代には戸籍役場同然の機能をもたされて、それが明治維新の廃仏毀釈(寺院に対する憎悪?)にもつながったらしいのですが、江戸幕府の宗教統制を強行したのは70歳前後の家康と、70歳代後半の天海というふたりの老人だったという解説を村上直さんが執筆を担当している『日光市史・中巻』の「近世封建社会の成立と日光山」で知り、『日本の大自然 19・日光国立公園』(毎日新聞社・1994)に書き(引用し)ました。
糸の会ホームページの『6=未整理(糸の会創設からのいろいろ)』の『★連載「国立公園物語」—シリーズ日本の大自然(毎日新聞社・1993.2〜1995.9)』の『国立公園物語…日光』です。(その原稿ですけれど)
【これら家康の側近のなかで特別な存在となるのが天海です。会津の出身ですでに関東では名僧として知られていた天海を家康が駿府に招いたのは慶長13年(1608) といわれます。これを契機として天海は大本山である比叡山延暦寺の探題職へと一気に昇進してしまいます。つづいて慶長17年(1612) には、家康が川越の無量寺を喜多院と改め、関東天台宗の本山と定めて天海を招きます。
家康による寺社の管理について、村山直さんはこう書いています。
――家康は1大名の時代から社寺の統制と利用に力をそそぎ、寺社領の安堵・寄進などを通して、領内の群小社寺をその政治支配体制のなかに組み入れることにつとめている。しかし、社寺法度*ハットで、それぞれ違った伝統や教義をもつ社寺を一律に規制するのは難しい。そのため個別的に法度を下すよりほかはなかった。
家康の名で出された法度は、元和元年(1615) まで総数43件、これに将軍秀忠のもの7件、その他の3件を加えれば、実に53件に及んでいる(うち2件は神社法度)。宗派別に見ると真言宗・天台宗・浄土宗・禅宗の順であり、日蓮宗は不受不施の問題がからんでいたため、家康の生前には公布されなかった。
これら法度に一貫している幕府の方針は、異議を禁ずること、僧侶の学問奨励のこと、仏教界から禁裏*キンリ(朝廷) 勢力を一掃することなどであるが、とりわけ末寺に対する本山の権限を保証したことが注目される。かくして慶長18年(1613) 2月28日、関東天台宗法度が定められると「本寺に伺わずしてほしいままに住持してはならない」「末寺として本寺の下知に違背してはならない」「関東本寺の義をうけずに、山門よりただちに証文を取ってはならない」など、関東本寺である川越の喜多院の地位を強調して、本山の比叡山の特権を凌ぐ、関東の天台宗管轄の全権を幕府によって保証されることになったのである。これによって天海を頂点とする天台宗の教団は強固な構築を示すことになったといえるのである。――
この慶長18年に家康は72歳で死のわずか3年前、天海は6歳年長であったといいますから77~78歳という高齢です。この老人2人がひそかにたくらんだことの舞台が日光なのです。】
最後になりますが「新義真言宗 智山派」とは何か?
『ウィキペディア』に『新義真言宗』がありました。
【新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)は、空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の宗派の一つで、真言宗中興の祖覚鑁(興教大師)の教学を元に覚鑁派の僧正頼瑜に連なる。高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。広義では、根来寺を本山とする新義真言宗、智積院を本山とする真言宗智山派、長谷寺を本山とする真言宗豊山派、室生寺を本山とする真言宗室生寺派などを含むが、狭義では真言宗十八本山の一つで、根来寺を総本山とする「新義真言宗」を指す。】

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【撮影】11時47分=伊藤 幸司
観音寺のところで信号待ちをしていたとき、この家の入口に「オープンガーデン」という小さな札があったので撮りました。住む人の意志が細部にまで宿っていると感じました。庭がどうなっているのかもちろんわかりませんが、ここに「オープンガーデン」があるとなれば、飯能にはほかにもあるのではないかと思って調べてみました。がわかりませんでした。

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【撮影】11時49分=伊藤 幸司
真っ直ぐ行くと天覧山へ1.1km、戻ると天覧山へ(近道)810mという道標ですが、私たちはすでに1分前にどちらへ行っても【天覧山へ1.1km】という道標を見ていますから、悩みません。まずは能仁寺へ行きたいのです。
ところが帰ってからこの道を調べてみるとわかりません。グーグルマップの航空写真で見てみると、広大な墓地の間に伸びて、深い森に吸い込まれているような私道のようです。
そこでこの写真の右手奥の部分をオリジナル画像で拡大してみると、やっぱり観音寺の墓地ですね。左側の壁の向こうは「東京都道・埼玉県道28号 青梅飯能線」とのあいだに長く伸びる境内となっていて、その本堂の背後から、今度は直角に(つまり写真右手へ)長い墓地が伸びているです。
あとから考えるに、この道は(恐らく私道なんでしょうが、飯能市内に残る深い森に吸い込まれていくような特別の道として公開されているのではないかと思われます。グーグルマップの航空写真で見ても、公道の舗装とはまったく違いますから。

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【撮影】11時50分=伊藤 幸司
たぶんここが観音寺の墓地を抜けるところ。苔で滑らないように気配りした歩道が始まります。

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【撮影】11時51分=伊藤 幸司
詳しくはわかりませんが、この道は深い樹林の中、丹生堀(たんしょうぼり)という小川に向かって下っていきます。
『飯能歴史散歩 埼玉県飯能市を徘徊しつつ、地元の歴史を無責任に妄想中也』というブログの『丹生明神社』で丹生堀を知ったのです。
【中山の智観寺のすぐ東側に丹生明神社(たんしょうみょうじんじゃ)があった。
智観寺と中山勘解由館の間に流れる小川は丹生堀と云う。
また、中山氏が勧請したという諏訪八幡神社の摂社としても丹生大明神が祀られている。
『新編武蔵風土記稿』には「丹生社 智観寺の境内より東の方にあり、中山備前守が鎮守なり、社領五石、社は御朱印地の内にあり、神体は石像なりと云、神秘のよしにて開扉せず…以下略」とある。】
【また高麗郡中山村の『村誌編輯』には「元慶年中(877~885)加治中山武信ノ勧請スル処ナリ」と記されているが、さすがに9世紀まで遡るのは無茶な話であろう。
丹生明神社は明治40年頃に現在の加治神社に合祀されて移された。】
そこに示された古地図を見ると、この写真の木の下の丹生堀の周囲には中山氏の館や、いくつかの寺院がびっしりならんでいたように思われます。

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【撮影】11時51分=伊藤 幸司
ここで丹生堀を渡ります。この手前には【貴重なカシ林を保存しましょう】という県の解説板がありました。
【自然植生であるシラカシ林は、神聖視され伐採をまぬがれた神社等の境内地にわずかに残されている。このような林は貴重な自然であるので、郷土のシンボルとして永く保存していきたいものである。
昭和55年3月 埼玉県】

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【撮影】11時53分=伊藤 幸司
シラカシ林を抜けると諏訪八幡神社です。先ほど渡った丹生堀の向こう側にはかつて中山氏の館があり、その中山氏がこの神社を勧請したというのです。埼玉県による解説板に、以下のように書かれていました。
【諏訪八幡神社は、土地では「おすわさま」と呼ばれ厚い信仰を集めている。創立は、永正十三年(1518年)、加治一族(中山氏)と平重清(畠山氏)との合力によって、武神の建御名方命を祀ったものと伝え、後に信州より諏訪明神を勧請し、誉田和気美命を合祀して、諏訪八幡神社となった。】

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諏訪八幡神社のところには飯能恵比寿神社、加能神社、飯能丹生神社がひとかたまりになっているようです。その神域を南の青梅飯能線(東京都道・埼玉県道28号)と、この飯能市民会館が挟み込んでいる感じです。
私たちは写真右端のところからこちらに抜け出てきたのです。

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【撮影】11時58分=伊藤 幸司
飯能市民会館前の中央公園通りは隣りの飯能市中央公園が終わったところで右に折れるのですが、そこが能仁寺の入口、仁王像のある山門のところです。

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【撮影】11時58分=伊藤 幸司
仁王像は二体とも力作だと思いますが、能仁寺のホームページを初め、いろいろ探してみましたが「仁王像」という以上のものは見つかりません。
たいへん失礼かと思いましたが、いま、新しい仁王像を必要としたら、どうしたらいいのだろう? ということを勝手に考えてしまいました。
するといくつかの工房があるんですね。その中で『仏像彫刻原田』という会社がわかりやすいプロモーションをしていました。
会社名は「仏像彫刻原田」あるいは「HARADA Co., Ltd.」のようですが、一般名称としては「特注の仏像販売・仏像彫刻の専門店の仏像彫刻原田」としているようです。
ホームページのトップページは力作です。
【◆すべてオーダーメイド
仏像彫刻原田は、木彫御仏像の専門店です。
私共の一番の特徴は、お客様のご要望を伺い、そのご要望にそって謹刻させていただくオーダーメイドである事でございます。
機械的に量産される画一化されたお姿ではなく、熟練の仏工が、お施主様の想いを胸に一刀一刀心を込めて謹刻に精進します。
ホームページに掲載のお姿は全て、これまで多くのお客様の様々なご要望によって完成し、全国各地に納入させて頂いたお姿でございます。
「原田さんにお願いして良かった!」
そんなお声を数多くのお施主様より頂いております。
◆イメージをかたちに
お客様の心の中におられるお姿をお客様の想いと共に謹刻させて頂くのが仏像彫刻原田の仕事でございます。
お姿の種類、大きさ、像容、ご面相など、お伝え頂いたイメージがお姿として完成した時、「想像以上の出来栄えです!」
と感じて頂く事が私共の最大の喜びでございます。
◆『想い』にお応えする
長年念願のお姿を、晴れてお迎えされるご寺院様。
日々の生活において、お姿と共に静かで穏やかな時間をお過ごしになられたいと感じておられる方々。
自己を律し励ます存在としてのお姿をご自宅にお迎えされたいとご希望の方々。
「色々探しましたが、原田さんのお姿のお顔に惹かれました。優しかった母の面影が感じられる観音様のお姿を彫っていただけますか?」
仏像彫刻原田は、そんな皆様の様々な想いにお応えすべく社員仏工一丸となり日々精進致します。
どうぞお気軽にお声をお掛け下さいませ。
無料お見積り。お問い合わせはこちらをクリック下さい。】
そして自社工房は中国にあるのだそうです。
【中国浙江省にある当社工房では、現在約30名の仏工が造像に当たっております。
仏像彫刻の歴史において中国は、日本の先輩にあたり、国宝級の御仏像の中にもその大きな影響を見出す事が出来ます。しかしながら、日本的なお姿と中国的なお姿の間には、印象としての大きな相違があるのも事実です。それはそのまま現代の造像にも反映されているようです。
そこで当社は、その感覚的な差を認識し、更には日本的なお姿のすばらしさを知ってもらう事を目的に、毎年数名の仏工を日本へ招請し、我々日本人スタッフと共に研修をしています。
日本滞在中は、京都や奈良をはじめとする全国の御寺院様を可能な限り参拝させていただくほか、当社で納入させていただいた御寺院様を訪問させていただき、造形的な事はもとより、日本の文化、風土、習慣などを肌で感じる事により、日本への理解、日本仏教への理解、日本仏教美術への理解を深めております。
また、工房においても定期的な勉強会を開き、仏教や美術に関して総合的に学んでおります。
これからも、より良いお姿の実現を目標に、社員一同、心を一つに精進して参りたいと考えております。
 合掌】
……とのこと。この金剛力士像がいつごろ、どなたの制作なのか知りたいところではありますけれど。

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【撮影】11時58分=伊藤 幸司
ゆったりとした参道が伸びていました。

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【撮影】12時00分=伊藤 幸司
ちょっと、モダンな雰囲気ではありませんか。芝を張りながらやわらかな変化をつけたかったというなら、いいアイデアじゃないんでしょうか。彫刻を置いたことに加えて、竹のこの柵が、やはり意図的なもののように思われました。能仁寺というお寺の革新性を感じました。

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【撮影】12時05分=伊藤 幸司
この寺は慶応4年(1868)に戊辰戦争の流れで「飯能戦争」の舞台になったのだといいます。後退してきた彰義隊を吸収した振武隊が官軍と戦って、わずか数時間、能仁寺はほとんど消失したのだそうです。
この本堂は昭和11年(1936)にようやく再建されたとか。素人目に見て、なかなかの建築物だと感じられます。飯能市では歴史的建造物の評価や保存に力を入れているようですが、これはどうも入らないみたいですね。

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【撮影】12時13分=伊藤 幸司
これは本堂の前庭の大モミジですけれど、本堂の裏側に残る庭園を、300円払って見ておくべきだったと思います。私たちがこの日の目標として掲げた天覧山を借景とした桃山時代の池泉回遊式庭園だそうです。
代わりにいい写真をみつけました。『庭園ガイド』の『能仁寺 奥行きと立体感のある池泉鑑賞式庭園』です。
【世界2,500ヶ所の夜景を巡った男が庭園をめぐる】というキャッチフレーズがついています。キャプションだけですが拾い読みさせていただきます。
【■写真=能仁寺庭園を眺める
こちらが能仁寺庭園である。池泉鑑賞式の蓬莱庭園であり、築山、亀島、鶴島、石橋を備える。
■写真=枯滝
山畔に沿って豪壮な枯滝石組を組んおり、本庭園で素晴らしい意匠と考えるところだ。ただ、黒松により枯滝石組の視界を一部遮っているのが残念。
■写真=飛び石と霰崩し(あられくずし)
夜景スポットでもある天覧山の急斜面を巧みに取り入れることで、立体的な庭園を生み出している。また、飛び石の周りを大きめの玉石を粗く敷いた敷石「霰崩し(あられくずし)」が施された意匠が凝らされている。
■写真=庭園を眺める女性
庭園を眺める女性。ちなみに、本堂や大書院の廊下はよく磨かれ手入れが行き届いている。フラッシュを利用したようにみえるが、暗めに撮影して暗部を引き上げるレタッチ処理で、自然な様子を再現。もちろん一眼レフやミラーレスを利用したRAW画像であることが大前提。
■写真=能仁寺庭園の額縁庭園
枯滝石組の右手、山裾下に洞窟石組があるのが分かるだろうか。望遠撮影してみると、、、
■写真=能仁寺庭園の額縁庭園と土蔵
このようになっている。洞窟石組とは蓬莱神仙思想による蓬莱石組のひとつである。形状は護岸に二石の支え石をいれ、その上に板状の石を被せた石室形式である。(出典:古庭園の観賞と作法手法 著:吉田徳治)
■写真=石灯籠をメインに添えた額縁庭園
能仁寺庭園と土蔵を眺める。奥行きと立体感ある庭園であることが分かる。
■写真=最後に、大書院の大広間越しに石灯籠をメインに添えた額縁
最後に、大書院の大広間越しに石灯籠をメインに添えた額縁庭園を撮影して、能仁寺を後にする。
■総評
○…天覧山の斜面を活かした立体感と奥行きのある庭園は、関東近県ではあまり見られないタイプである。
×…見応えのある枯滝石組が黒松により見えづらい。】

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【撮影】12時20分=伊藤 幸司
休憩スペースにあった亀型石のテーブルセット……だったと思います。
乗っているのはシナノのトレッキングポールです。最近糸の会に参加した方(女性)が登山用品店で勧められて買ってきたものの、なかなかセッティングできないというので私も見せてもらいました。
糸の会はそのほとんど最初から「ダブルストック」を基本装備として用意してもらいました。ゴアテックスの雨具より重要だと。
そのきっかけとなったのは参加者の一人が持っていたドイツのスキーポール・メーカーLEKI(レキ)社の登山用ダブルストックでした。
株式会社キャラバン(1956年の日本隊のマナスル初登頂にキャラバンシューズを提供して、日本の軽登山靴分野を牽引した)が1993年にLEKI社と提携して日本で登山用ダブルストックを売り出したんですね。
それまで(私は1983年から朝日カルチャーセンター横浜の登山講座で5人講師の末席で実技登山に同行していましたが)登山者がスキーストックを1本持ったり、杖を持ったり、山によっては金剛杖や落枝を持ったりする人を見ていましたが、第一に、私は利き手で1本使い続けること自体に反対でした。
糸の会が始まってほぼ1年目の1996年9月ですが、檜洞丸の下りで、バスの最終便に間に合うかどうかハラハラしながら、女性たちがペースを落とし、かつ転倒する危険を見せている状態に危機感を感じていました。それがたとえ軽い事故でも、バスに乗り遅れることになりますし、急がせれば足場の悪い急坂の下りで、事故をおこす確率がどんどん高くなるのです。
日帰り登山の規模を縮小するか、下りの安全係数を飛躍的に高めるかという悩みの中でLEKIと出会ったのです。たまたま持っていた人のLEKIを借りて岩を強く突いてみたら「超硬合金」製だという円形の石突が岩にカキッと食い込んだので、それを皆さんに「標準装備」として購入していただくことに決めたのです。
当時LEKIは2本セットで売られていましたが、2万円出して買う人は少なかったらしく、1万円でのバラ売りが一般的でした。
以後四半世紀、糸の会は下りでの女性の能力が高いので、下山路が相当悪くてもおおよその時間管理ができるため、南アルプスの計画などでも予備日を設けずに出かけることができるようになりました。
当時は東北の山などでは「四つ足で歩くようにはなりたくないね」というような声をすれ違いざまに聞かされることがたびたびありました。
アメリカのクライミング用品メーカー・ブラックダイヤモンド社がトレッキング・ポールを売り出したのは1994年だそうですが、日本の登山用品輸入会社のロストアローが売り出したのはいつでしょうか。2008年より前のようですが、そのころアルミ製の1万2000円前後のものが出て、しかも「カムレバー式」という3段のポール長調節機能が女性に扱いやすいので、新しく買う人にはそちらを勧めました。
しかしその後(2011年から?)ブラックダイヤモンドでは三つ折りにできる「Zポール」を販売します。これは糸の会のみなさんが歳とともに小さめのザックを使うようになったときに、ザック内にすっぽり入るというのがきわめて大きな利点となりました。
しかもブラックダイヤモンドのZポールは値段が1万2000円前後なので、私は積極的に勧めてきました。
ただ、問題が2つあります。なぜか知りませんがブラックダイヤモンドは手首に回すベルトの質が最悪で、カムレバー式の最初からズ〜ッと同じ担当者が同じところに下請けさせているらしく、生地がすぐにグズグズになってしまいます。
それから「やわらかなアルミ製なのですぐに曲がります」などといわれて親切な専門店だと2万円クラスのカーボンシャフトなどを勧めてくれるようです。第一、1万2000円クラスのブラックダイヤモンドを置いていない店も多いらしく、型番がはっきりしないのでさがしにくいのですが、やむなくネットで購入した人もいます。
これは千葉県では有名な親切登山用品店で購入したシナノの2万円クラスのトレッキングポールです。素人感考えで組み立てようとすると、最初ちょっと戸惑う場面があります。じつはものすごく簡単にできるのですが、シナノのこのポールはさらにひと工夫加えられていて、以前ちょっと確かめてみたときのデリケートすぎる感じが抑制されて、実用的なストレートさを感じました。その結果、値段で選べば1万2000円クラスのブラックダイヤモンド、2万円出せるお金持ちにはシナノという選択を勧めたいと思います。
ここでは書きませんが、
1)アルミとジュラルミン、カーボンなどを強度の違いとして区別しない理由
2)なぜ下りで圧倒的に女性の能力を高められるのか。
3)登りでの使い方は?
4)左右をフィフティ・フィフティで使う必要
5)岩場でこそ使いたい理由
6)登山道を傷めるという問題について
7)登山用ダブルストックの道具としての位置づけを間違えた最初の責任者
……などということに関しては今後も折に触れて書きたいのですが、基本的な考え方は『糸の会』の『3=山旅講座(がんばらない山歩き)』の『講座=がんばらない山歩き』の『自習登山のすすめ』にあります。

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【撮影】12時23分=伊藤 幸司
これも能仁寺の境内のようです。あじさいが飯能では初夏の名物になっているようです。
『彩の風に誘われて』というブログに『飯能市の花*木陰に咲く紫陽花 2018/06/17』がありました。
【今日も能仁寺の紫陽花に、どうかお付き合いください。咲いているのは、駐車場横の桜の小道。紫陽花は日当たりが苦手らしい。ここは日陰になるので、最適かもしれませんね。花色は、紫、ピンク、青、白などいろいろ】

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【撮影】12時27分=伊藤 幸司
能仁寺のアジサイが終わると街路に出ました。まだ市街地のはずれに位置する車の道を登っていきます。
ここで私の指を撮りましたが、使い捨ての指サックを皆さんにも渡して、右手の指先を清潔に保つために、アベノコロナに侵されそうな汚い仕事は左手でやってみようというインド方式の提案です。
これについては地平線通信no.495(2020.7.15)に書いたものの、指サックの提案の部分だけ引用しておきたいと思います。
【……そして6月から再開した山歩きの[コロナとともに]シリーズで提案しているのが指サック作戦です。今はマスクが対コロナ防衛の象徴ですが、本当の突撃戦が行われる場は「利き手の人差し指」だと思うのです。だから反対側の指に使い捨ての指サックをはめてみていただくことを始めました。若干インド風ですが、指先にやらせる汚れ仕事を利き手でない側の人差し指&親指(&中指?)にやらせたいと思うのです。コロナウイルスに対する防衛戦を勝ち抜くには、利き手の指にコロナウイルスを接近させない努力が重要だからです。
まずは千円札と小銭を左手にまかせようとするのですが、これがむずかしい。ダブルストックを左右均等に使うとか、二足歩行のそれぞれの足を同じ負荷で使うのと同様の難易度だと思うのです。わたし(たち老人)は残りの生存日数を賭けたコロナさまとの見えない遭遇戦を指一本で乗り越えようとしています。】

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【撮影】12時44分=伊藤 幸司
天覧山の展望台は能仁寺の裏山という感じでした。富士山が見えれば堂々たる展望台なのでしょうが、飯能駅の周辺がビル群となっていて、その向こう、山際には駿河台大学のキャンパスが広がっています。頭が尖った茶色い建物が大学本部ですかね。メディアセンターという名前かもしれません。その左にやはり屋上に尖ったものがある白いビルが2棟。学生寮だそうです。
『駿河台大学』のサイトに『学生寮・フロンティアタワーズ』の説明がありました。
【10 階建てツインタワーのフロンティアタワーズは、居住スペースA館(女子)144室・B館(男子)162室あわせて306室あります。24時間有人管理の万全なセキュリティーシステムを導入したワンルームタイプです。
全室冷暖房完備で、ユニットバス、ベッド、小型冷蔵庫、多目的デスク、内線電話、無料 Wi-Fi など、生活に必要な設備を十分に配して、安全で快適な学習空間を提供しています。】
『メディアセンター』は次のようなものでした。
【本学の特色のひとつに、徹底した情報化への対応があります。学生は入学と同時にID、パスワード、メールアドレスが配付され、インターネットと電子メールを無料で利用できます。インターネットへの接続には光ファイバーを利用し、高速インターネット接続を実現しています。また、学内全域で無料のWi-Fi環境を提供しています。
メディアセンターはマルチメディア・ネットワークの拠点として重要な位置を占めます。図書館、情報センター、博物館の機能を統合し、FMスタジオ・映像スタジオをも備えた施設です。またパソコンとマルチメディア機器を駆使し、いろいろな情報の受信、発信、検索、映像制作、編集なども可能です。】

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【撮影】12時45分=伊藤 幸司
ほとんど消えかかった展望図がありました。驚いたのは富士山に重なっているのが高明山、覚えていますかね、最近も行っています。2018年の8月でしたか、大岳山から馬頭刈尾根を下って瀬音の湯へドボン。そのとき高明山で休憩したと思います。富士山なかったですけどね。

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【撮影】12時47分=伊藤 幸司
計画書はこの山を表題にしましたから、あっ! 撮っておきましょうかという感じで。
能仁寺を出たところに「天覧山の由来」が掲げられており、この山頂にも英文付きで長文の「天覧山」がありましたが、ここでは『ウィキペディア』の『天覧山』を。
【天覧山は、山麓にある能仁寺に愛宕権現を祀っていたので、もとは愛宕山と呼ばれた。それが時代を下り、徳川五代将軍綱吉の病気平癒のお礼に、生母桂昌院が十六羅漢の石仏を奉納したので、羅漢山と呼ばれるようになった。それが1883年(明治16年)4月18日に、山麓で行なわれた近衛兵春季小演習を明治天皇がこの山頂から統監したことにより、天覧山と呼ばれるようになり、行幸記念碑が建てられている。標高は低いが頂上からの眺望はよく、飯能市街が一望できるのはもちろん、奥武蔵・奥多摩の山々のほか、遠く富士山を望むこともできる。】

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【撮影】12時49分=伊藤 幸司
まずは下ります。手入れの行き届いたハイキングコースという雰囲気ですね。土留めの道も快適……なんですが、下の方で湿って滑りやすい場所もありました。水切りという視点で見ればあまり意識されていないようです。

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【撮影】12時53分=伊藤 幸司
これがこの道を管理している人たちが水切りという機能を考えない補修だと思います。きっと大雨で浸食されたところを盛り直したということでしょう。水が浸食パワーを見せる前に逃げ道を考えてあげなければいけないのです。この部分は右が高く、左が低い傾斜面にあるのですから、左に少しずつ逃してやればいいのです。道を上から下へと下ってくる水を「逃してやる」という視点が、下界で造園や土木の仕事をしている人や、その監督をする役人の皆さんに欠けているんで、日本中の登山道が危うい状態にあるといっていいと思います。

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【撮影】12時54分=伊藤 幸司
ここなどは土留めされた土がかなり削られて土留めの木材が浮き出てしまっています。地形的に見れば、このカーブのところで上から流れてきた水をカーブの外側から流れ落とす道筋を作ればいいのです(できていますね、ここではちゃんと、か反乱状態の水が勝手にしたのかわかりませんが)。こういう場所で、人間側が知恵を絞って水流の暴力を断ち切ってほしいのです。

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【撮影】12時55分=伊藤 幸司
日本固有種のジャノヒゲ(リュウノヒゲ)なんですね。独特の青い実があればもちろん即座にわかったのですが、白い花が立派だったのでシロバナシランだのノシランだのに振り回されて無駄な時間をネットサーフィンに使ってしまいました。
そういえば、そんなこと、皆さん足元に見ながら、瞬時に解決済みだったみたい、と思い出しました。

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【撮影】12時55分=伊藤 幸司
緑の底に下っていく感じ。このシーズンならではの風景だと思います。おいしい緑、とまでは思いませんでしたが。

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【撮影】12時57分=伊藤 幸司
天覧山の背後へ下ると能仁寺から天覧山を迂回してきたきた道と合流しました。この道は多峯主山(とうのすやま)へ登る道と、高麗(こま)峠から巾着田へ抜ける奥武蔵自然歩道へと分かれるようです。

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【撮影】12時58分=伊藤 幸司
ドクダミをポートレート風に撮ってみました。
はびこり型のやっかいな雑草でもあるけれど、例えば『ウィキペディア』の『ドクダミ』の『利用』という見出しを見ると、これがドクダミに対するおだやかな評価ではないかと思うのです。
【昔から、ゲンノショウコ、センブリとともに日本の三大民間薬の一つに数えられ、薬効が多岐にわたるところから十薬とも呼ばれている。欧米でも東洋のハーブとして人気がある。葉に斑が入った品種は、観賞用に栽培もされている。】

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【撮影】13時02分=伊藤 幸司
多峯主山(とうのすやま)への登山道に入りました。その入口に『見返り坂と飯能笹 県指定天然記念物』という解説板がありました。ササそのものが見えなくて写真もないのですが、解説文はなかなか印象的でした。
【見返り坂は、源義経の母、常盤御前がこの山に登ったとき、あまりの風景のよさに後を振り返り、振り返り登ったことによりこの名がついたといわれている。
この見返坂の麓に、植物学者、故牧野富太郎博士により発見され、命名された飯能笹の植生がある。
この笹は、アズマザサの仲間で根茎は横に走り、茎はこげ茶色をしてまっすぐに立ち、高さは150cm前後、直径0.6cmほどになる。茎の上部で枝が分かれ、枝の端には、手のひらをひろげたように数枚の葉が集まってついている。葉は細長く、長さ13〜20cm、幅2cm内外で先はとがっている。質は薄い洋紙質で表面は毛がなく、裏面にはビロード状の細毛がある。
中央の脈は細く裏面に隆起しており、この両側に5〜8本の脈をもっていて、冬期に葉のふちは白色となる。一見普通の笹のようにみえるが、幹の色、枝の出方などに特色がある。
繁殖力はさほどなく、古くからこの地にのみ限られて生えている。
昭和55年3月 埼玉県】

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【撮影】13時20分=伊藤 幸司
じつはこの葉っぱ、前回の仙元山(2020.6.16)の登り道で1枚だけ地面の上にあったのを撮って、カンアオイの仲間ではないかといろいろ探し回ってしまいました。葉の模様はこれとほとんど同じで、全体にいぶし銀がかかったような顔つきは、放っておくわけにはいかなかったのです。もちろん「わからない」というのが結論で犯人のいない探偵物語みたいになってしまいました。
今回、この写真を見て、すぐに「あれだ!」と思い出せたのは、じつはそのキャプションづけをやったのが数日前だったからです。
この葉っぱがつる草のものだということはわかりました。……となればすぐに疑いをかけるのは自然薯(ヤマノイモ)です。自然薯は日帰りの山のあちこちで掘り起こした跡がけっこうたくさん見られます。
ところが自然薯の画像を見ていくと、葉の形が無数に変化して、これに似たものもあるけれど全然違うものもあるという状態。それよりもツルがこんなに細かったっけ? と思いました。
そのうちに自然薯に似た葉っぱがあることがわかりました。
葉っぱを探し回っているうちに犯人探しの似顔絵のようなものが見つかりました。『青井秋』さんという人の『ヤマノイモ科、山で見かけるたびにどれだっけ?となるので描いてみたけどやぱりどれだっけ?となる……2020年5月28日』です。
絵は直接ごらんいただくとして、ヤマノイモ、ナガイモ、オニドコロ、タチドコロ、ヒメドコロ、キリバドコロ、カエデドコロ、マルバドコロのうち、本命かと思っていたヒメドコロが3枚描かれていましたが、なかなか確信がもてません。
でもとりあえず、自然薯に似た蔓草がいろいろあってそのどれか、ということには間違いないように思われます。

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【撮影】13時21分=伊藤 幸司
この道筋に、すごい解説がありました。
【よしだけ 常盤御前が多峯主山に登った時の伝説で夢のように過ぎ去った我が世の春を思い出し“源氏再び栄えるならこの杖よし竹となれ”といって突いてきた竹杖を地に立てそれが根づき一面の竹林をなしたといわれている
今この道の上や下に僅かに残っているのがその名残で竹を「よしだけ」と呼んでいる】
「、」「。」なしで書かれた立派な金属板の看板でした。

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【撮影】13時25分=伊藤 幸司
雨乞池(あまごいのいけ)に着きました。
ここには、これまでも何度か見てきた昭和55年3月の埼玉県の解説板がありました。
【この池を雨乞池、または雨乞渕という。こんな山頂にありながら、かつて水の枯れたことのない池である。
古くは、この上手に高龗(たかおかみ)・闇龗(くらおかみ)(雨をつかさどる神として古来祈雨・止雨の神)がまつってあって、近郷の人たちの信仰が厚かった。
田畑の作物が枯れるような旱天が続くと、ここに集まって、神に雨を乞い、池のまわりでにぎやかなお祭りをしたという。「この水を濁すと雨が降る」といい、また、鼻をつまみ息を止めて七廻りすると、池の中に異変がおこるといったような伝説もある。】
もちろん私たちも一瞬「鼻をつまみ息を止めて七廻り」を考えてみましたが、高齢者ゆえやめました。

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【撮影】13時27分=伊藤 幸司
雨乞池の傍らにあったこの赤い実はみなさんが撮っていたので私も撮っておいたのですが、まあ、撮ってしまったのでキャプションを付けられるかどうか出しておこうということで出しました。
パッと見て知り合いという感じはまったくないのですが、赤い小さな実をつける木ではあるのでそれで検索して画像を見ていくと、大筋ではウメモドキ(モチノキ科モチノキ属)とかツルウメモドキ(ニシキギ科ツルウメモドキ属)に似ているんですね。でも一つひとつの実の着き方がちょっと違う。葉の形については顕著なちがいはなさそうなのですが、コマ違いの写真を見ると2枚の葉が枝の同じ場所から左右についている対生です。ところがウメモドキもツルウメモドキも葉は互生。つまり枝に沿って、右・左、右・左と葉をつけていくのです。
赤い実の候補としてはソヨゴ、アオハダ、イヌウメモドキ、ガマズミ、イイギリあたりまでチェックしてみたのですが、まったくかすりもしないという空振りでした。どなたかが正解を出してくれるのを楽しみにしています。
残念なのは空振りにしても小さな赤い実の木をいくつか探し回ったのですから、本当はその体験が次に生きてくれるといいのですが、だめなんですね、きっと。問題は時間の浪費と見るか、時間を忘れた時間、だったかでしょうね。

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【撮影】13時29分=伊藤 幸司
これが雨乞池の全景。【鼻をつまみ息を止めて七廻り】に成功した人があれば、すごいですね。
たぶん、急いで回らずにゆっくり、長く、……たとえばジャック・マイヨールのようにフリーダイビングで100m以上潜れる人なら、いけるかもしれませんね。彩の国(埼玉県)が1,000万円ぐらいの賞金を出して世界大会を開いてみたら、看板にあるように【池の中に異変がおこるといったような伝説】が生まれるかもしれません。矮小化するなら、テレビのお笑い番組で。
山の上にあるとはとても思えない品のいい、一見に値する池じゃあないですか。

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【撮影】13時32分=伊藤 幸司
雨乞池のすぐそばに、このトイレ。4つ並列の大型公衆トイレで、水を使用しない【未来型トイレ「バイオR21」】というのでみんなで興味津々。水を使わないというのに、外の蛇口には【手洗いをしっかりしましょう】という贅沢な感じ。みんなで並んで見入ってしまったので、扉を開けて見たまでで、誰も入ちませんでした。
『大央電設工業』のホームページにありました。
【バイオトイレ「バイオR21」は、水洗でもなく、汲み取りでもない、バイオ微生物処理による循環・リサイクル型の地球にやさしいバイオトイレです。し尿はもちろん、生ゴミや廃食用油も分解処理できます。
菌床にはそば殻を採用し、その中に信州大学農学部との協同開発で発見した好気性バクテリア(特許第4105563号)を初期投入することで、し尿・生ゴミ・廃食油を微生物処理します。以前のバイオトイレは、おが粉に含まれるバクテリアに分解処理を任せる物でしたが油成分の分解が不完全で悪臭が発生するなど年に何回かおが粉の交換が必要でした。しかし、この好気性バクテリアを初期投入することにより、自己処理型バイオトイレ「バイオR21」の菌床の入れ替えは基本的に必要なくなり、悪臭も発生せず、メンテナンスの手間が大きく軽減されました。「バイオR21」はメンテナンスに手が掛かるという常識を覆す自己処理型バイオトイレなのです。】
さらにそのパッケージング製品がまさにこれだったようです。
【また、自然エネルギーを利用するハイブリッドシステムを搭載した、建物一体型移動式バイオトイレ(MDBR)は、重量センサーシステム併用のし尿分離システム(特許第4671407号)セパレート便器(特許第4515962号)等の開発により、山や海、災害時、イベントなどあらゆる場面で、活躍の場が広がっています。より環境にやさしく、災害時に頼れるバイオトイレとなるために進化を続けています。】
また価格表のなかにこれらしい【一度に4人が使用可能】で【大2 小2 入口4】で【外観: ログ調】で【災害対策仕様対応】で【ヘリコプター運搬可】で【付属機器 室内外灯(センサー付)・紙巻器・セパレート便器・小便器・鏡】で3機種あり、価格は680万円〜798万円とのことです。
すごい! 埼玉県は。

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【撮影】13時36分=伊藤 幸司
トイレのところからだと戻る感じで山頂に向かうのですが、メインストリートという感じですね。

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【撮影】13時39分=伊藤 幸司
山頂が展望台になっていました。
普通ならこの風景をじっくり眺めながら休憩するところでしたが何組かの先客がいて、談笑している人たちもいたので、その場の雰囲気で私たちはちょっと先の山頂の標識のところまで上がったのです。
そこでのんびりしてしまって、おしゃべりもしてしまって、こちら側の写真をきちんと撮らずに先へと進むことになってしまったのです。山頂に先客がいる場合は、ときどきそういうことが起こります。

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【撮影】13時39分=伊藤 幸司
手前の手前の緑の山は天覧山でしょうか。その先に見えるビルが青字に白文字の看板を掲げています。オリジナル画像で見ると「maruhiro」です。JR八高線・東飯能駅の向こう側(東口?)にある丸広百貨店 飯能店です。
中心街を右にたどると高いビルの足元にまた青い看板がありますが「TOWA」と書かれています。東和銀行飯能支店です。西武線の飯能駅からバス通りを出ると、私たちが左折れして銀座通りに入った飯能駅前交差点の次、東町交差点のところにあります。その東町交差点を右(こちらからだと左)に折れるとJR東飯能駅になります。
多峯主山から見ると東和銀行はJR東飯能駅と西武線店飯能駅とのほぼ中間にあると考えていいのでこの写真では飯能駅のあたりが右端のすぐ外側にあって切られてしまったということになります。仕事で撮っていたらボツですね。こには出さなかった前の写真はこの写真の左側です。さらにその前の写真(つまりここに出している13時39分のもう一枚の写真)を見ると、天覧山の右側が木に隠れてよく見えないので、何歩か左に移動して撮ったんだなとわかりました。この山頂からの展望をきちんと見ようとしていなかったということです。

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【撮影】13時40分=伊藤 幸司
じつは私は、飯能の街なんかより、東京を探していた、ということを思い出しました。天覧山のときよりすこし見通しがよくなったんですね、それで(たぶん)これは西武球場でしょうが、その向こうにある2棟の大きなビルを見ています。地図で調べればわかるでしょう(いまはやりたくありませんけど)。

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【撮影】13時40分=伊藤 幸司
これは丘陵の向こうに黒々とした(雰囲気の)大きなビルがふたつ。左側のは屋上に塔を何本も立てたようなおどろおどろしい感じですから大学かもしれません。
その向こうに都心部の高層ビル群がうっすらと写っています。肉眼でもこんな程度の見え方でしたから期待はしていませんでしたが、それがもうすこしはっきりしてビルのひとつぐらいはっきり名指しできるようなら、決着をつけたいところです……けれど。

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【撮影】13時42分=伊藤 幸司
展望のいいところは「密」な雰囲気でしたが、真の山頂はこんな感じ。長い付き合いの山友だちですから歩きながらでもおしゃべりが止まらないのがふつう、なので、ここではおしゃべりタイムでした。

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【撮影】13時42分=伊藤 幸司
まあ、微妙な距離ではありますが、それぞれの方向も合わせてみると、かなりしっかりしたアベノコロナ対応、ではないでしょうか。

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【撮影】14時18分=伊藤 幸司
【御嶽八幡神社・吾妻峡】という道標に従って下ると、すぐに御嶽八幡神社が出てきました。

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【撮影】14時20分=伊藤 幸司
御嶽八幡神社の前に建てられた県の解説文は(私にとっては)ものすごい現場感を感じさせるものでした。
関心のない人にはなんの意味もないローカルな昔話に過ぎないでしょうが、私には日本の神様たちがそれぞれの時代、庶民たちにどう翻弄されてきたかを事細かく解説されています。地方誌のどこかに書かれていたものなんでしょうけれど。
【御嶽八幡神社は通称「おんたけさん」といい、誉田別命(ほんだわけのみこと)・大山咋命(おおやまぐいのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られている。
多峯主山(とうのすやま)の前面にあって、一大岸壁の突き立つ所を前岩と呼んでいるが、ここに古くから小社が鎮座し、多峯主山一面の守りをなしていた。
江戸時代の末期に与平(よへい)という人が、かねてから琴平宮を屋敷内に祀り、ひそかに信仰していた。
当時この山一帯は、黒田氏の領地で飯能村寄合名主の大河原氏が領主の委任を受けて管理していた。与平は大河原氏の依頼によって曽根刈りなど山仕事に当たっていたが、ある日、前岩付近で昼寝をして目がさめてみるといつのまにか山麓にころげおちていた。不思議に思った与平は、この山に琴平宮を祀ることに決心し、百余段の階段を築き、一族とともに参拝したといわれている。
明治の初め、御嶽教がさかんになり、丸田開元(まるたかいげん)という人が中心となって、名主大河原又右衛門とはかり、信州の御嶽神社の分霊を安置し、同時に講をおこした。
その後明治四十年、武人八幡を合祀し、御嶽神社を改めて御嶽八幡神社と改称した。産土(うぶすな)神として信仰が厚い。
昭和55年3月 埼玉県】
人々の「厚い信仰」がそれぞれの時代に人々の信仰を支える神社としてあった、ということはわかりますが、そこに祀られた歴代の神様たちにとってはどうだったのでしょうか。明治時代に盛んになったという御嶽教は今もなお木曽の御嶽山頂一帯に教祖の銅像があり、今もそれを訪ねる信者の姿がありますが、神社が看板をかけかえたとき、そこに祀られていた金毘羅大権現や誉田別命(八幡の神、応神天皇とも)、大山咋命(全国の日枝神社の祭神?)、大己貴命(大国主神の別名のひとつ)、少彦名命(大国主神の義兄弟となって国造り?)などがまだ居候していたということなのでしょうか。
私の体験ですが、1979年から翌年にかけて山岳雑誌「岳人」に16回連載し、1980年中に『富士山・地図を手に』という名で単行本化していただいたなかで、「第4章・浅間神社」で全国に1,317社もあることをレポートしています。
そのデータは静岡県富士宮市の富士山本宮浅間神社が昭和3年に刊行した『富士の研究』(全6巻で当時一流の学者が執筆しています)によるのですが、明治政府によって神社が管理されるようになって8万を超える神社がリストアップされていたのです。
【その調査では、1,317の浅間神社が「社格」によって分類されています。「官幣社」「国幣社」「県社」「郷社」「村社」というランク分けにしたがって見ていくと、官幣社は静岡県に1社、国幣社は静岡県と山梨県に1社ずつあります。そして県社は5社あって、静岡県に2社、山梨県に3社となっています。これで上位8社は地元の静岡県と山梨県で4社ずつ分けあっていることになります。
その下の郷社は15社あって、静岡8、山梨3、東京2、愛知1、滋賀1という分布です。村社になると225社もあり、静岡90、千葉31、山梨19、埼玉19、神奈川10といったぐあいになって、関東地方で全体の4分の3を占めることになります。その結果残された1,000社あまりの浅間神社は「無格社」「摂社」「末社」「境内社」とされるもので、いわば「その他大勢」といった感じのものです。そこにはきっと私などの目には神社とは見えないような小さなほこらまで、含まれているのでしょう。
それにしても、神社というのは妙に形式張ったところがあるわりに、あんがい簡単に建立できるもののようです。「分霊」を勧請することでふえていくところなど、まるで株分けやさし木のようです。なかには富士登山のおりに持ち帰った石ころを勝手にご神体としたものもあるといいます。いいかげんといえば、かなりいいかげんです。しかしそういう手軽さがあったからこそ、コノハナノサクヤヒメをまつる浅間神社は驚くほど広い範囲に散りひろがっていったのでしょう。】
多峯主山のこの神社でも、人間によって招かれたいく柱もの神様たちが、かならずしも幸運なまま最後をまっとうできないでいるのではないか、というふうに、私には思えるのですが、ね。

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【撮影】14時23分=伊藤 幸司
御嶽八幡神社を出てわずか2分後、私にはうまく感じられませんでしたが、多峰主山の「前岩」と呼ばれてきた岸壁の上に御嶽八幡神社があって、ここにある牛頭天王の小さな祠やいくつもの石碑はその前岩の下部にあたるのでしょう。

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【撮影】14時24分=伊藤 幸司
これはなんだかわかりませんが、吾妻峡から登ってくると御嶽八幡神社への道と常盤平経由で山頂に向かう道との分岐点にありました。

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【撮影】14時25分=伊藤 幸司
大きなジグザグを切って傾斜を緩やかにした登山道は、神社の参道と考えられて整備されたところに見られます。最初にそれを感じたのは奥多摩の大岳山に白倉バス停から登る道で、なんだか距離が長くなってかえってかったるいという感じがしたのですが、下ってみると驚くほど早い。その後、超初心者のみなさんに奥多摩三山のひとつに裏側からダイレクトに登ってしまうという快感を味わっていただくのに最適なルートとして活用させていただきました。
ちなみにスント(SUUNT)の高度計は登降スピード(毎分あるいは毎時の予想高度差)が測れるので、下りで下山時刻を予想するのにものすごく便利です。そのために、私は現在もシミュレーションマップには1/25,000地形図を使用しています。

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【撮影】14時29分=伊藤 幸司
またこの花がありました。12時55分に天覧山の下りで見たのと同じです。
ジャノヒゲ(リュウノヒゲ)で間違いないとは思うのですが、思いがけない立派な花なのでその白い花をネットで調べていると「シロバナシラン、にしては葉が細いみたいですし、ノシラン、にしては花があでやか」というような迷路に迷い込んでしまいました。
あとで振り返ってみるとほんとうにややこしい迷路でウロウロしていたみたい。(楽しい時間では)ありましたが。
たとえば『ほぼ ふつうの植物図鑑(やさしいえんげい)』の『ノシラン』には次のように書かれていました。
【学名のオフィオポゴン・ヤブランはおもしろいことに日本語由来です。属名のオフィポゴンは日本語の「蛇のひげ」をギリシア語に直訳したもので、その意味もずばり「蛇のひげ」です。種小名のヤブランは「ヤブラン(藪蘭)のような」と言う意味で、草姿がヤブランに似ているところから来ています。ヤブランは同じ科で縁は近いですが、属は異なります】
また【同属のジャノヒゲ(リュウノヒゲ)もグランドカバーや下草など造園に広く利用されます。】
『ウィキペディア』の『ジャノヒゲ』にはまず【ジャノヒゲ(蛇の髭、学名:Ophiopogon japonicus)は、キジカクシ科ジャノヒゲ属に分類される常緑多年草の1種。リュウノヒゲ(竜の髯)、ネコダマ(猫玉)ともいう。】とあります。

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【撮影】14時36分=伊藤 幸司
7分前の写真と同じ花だと思います。
私はネットのどこかで目にしたオオバジャノヒゲの花の写真から「ジャノヒゲ」へと目が向いたのですが、葉の長さや太さでもいろいろあって、素人はそういう細々とした差異にも振り回されてしまいます。
たとえば『高尾山全植物』(山田隆彦 著・文一総合出版・2018)にはジャノヒゲ属にジャノヒゲ、ナガバジャノヒゲ、オオバジャノヒゲの3種が出ています。もちろん違いは書かれていますが、私のように写真を1〜2枚撮るだけではどうにもなりません。それで“犯人”を探したいと考えているのがお粗末ではあるのですが。
『ウィキペディア』の『ジャノヒゲ』には次のような記述もあります。
【ジャノヒゲ及びその園芸品種であるチャボリュウノヒゲ(タマリュウ、ギョクリュウ)は、高い浸水及び冠水への耐性があり、根が水に浸された状況や水中などでも生存が可能である。】
【リュウノヒゲの名で、庭のグランドカバーとして用いられ、よく植え込みにも用いられる。また、高い浸水耐性・冠水耐性からアクアリウム用プラントとして用いられる事もある(この用途の場合は、「オピオポゴン」の名称が多く用いられている。)】

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【撮影】14時39分=伊藤 幸司
ホタルブクロの大きな株が斜面にありました。アップで撮ったオリジナル画像を見るとこれはホタルブクロです。
『松江の花図鑑』の『ホタルブクロ(蛍袋)』には次のように書かれています。
【萼片の湾入部間には反り返った付属体がある。】そして【近畿以東の山地には萼片の湾入部に付属体のないヤマホタルブクロという変種がある。】

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【撮影】14時40分=伊藤 幸司
ホタルブクロのあった斜面はドクダミでびっしりと覆われていました。
『住友化学の園芸 eグリーンコミュニケーション』というサイトの『雑草ナビ』に『ドクダミ』がありました。
場所別におすすめの薬剤を紹介しているのですが、その後に『みなさんがお困りの雑草はコレ! 「雑草」閲覧トップ5』というのがありました。
【第1位=スズメノカタビラ、第2位=コニシキソウのなかま、第3位=ヤブガラシ、第4位=スギナ、第5位=ドクダミ】
私はドクダミを1輪で見ても、びっしりと生えた状態で見ても、どちらかというと好きなので、ぜ〜んぜん「お困り」には見えません。
ドクダミに対して暖かい眼差しで書かれた文章を見つけました。『EVERGREEN 植物図鑑・Q&A』に『[ドクダミ]やっかいだけど可憐なドクダミを知る|ドクダミ科ドクダミ属|エバーグリーン 2018年7月8日』です。
【■やっかいもの扱い
ドクダミは、北向きの庭や道路の端っこなど、湿り気のある日陰で盛大に茂るザッソウです。春から夏によく見られますが、花の咲く初夏~梅雨頃がいちばん目につきやすいです。多年草で、だいたい毎年同じ場所から生えてきます。いつもの道を散歩していると「今年もこの場所のドクダミは盛大だなあ」といった感じです。塀(へい)に沿って行儀よく茂っている場面も見かけます。塀が太陽光を遮って日陰をつくるので、ちょうどよい環境なのでしょう。
いくら引っこ抜いても生えてくるので、「やっかいなザッソウ」と思われる方も多いのではないでしょうか。いくらでも生えてくる秘密は、縦横無尽に走る地下茎の存在です。表向き全部引っこ抜いたと思っても、土中に地下茎が残っているとそこから芽を出します。細かくちぎれた地下茎の欠片からも芽を出すので、スコップを突き立てて地下茎を切断しても、株数が増えるだけです。
茎や葉をちぎると青臭さに生臭さを足したような独特の臭気を放つので、その点も嫌がられる原因かもしれません。
■可愛らしい花
さんざん悪く言ったあとではありますが、ドクダミの魅力的な部分も紹介しましょう。白い花は可憐で可愛らしく、花の咲く時期は引き抜くのをためらいます。少しだけなら庭にあっても良いのでないかと、手心を加えてしまいます。
白い花びらに見える部分は「総苞片(そうほうへん)」と呼ばれる葉に近いものです。花の真ん中に立つ黄色い部分が花の本体です。めしべとおしべのみで構成された花がたくさん集まって、花穂(花序)をかたち作っています。
■ドクダミと園芸
園芸では総苞片がたくさん付く「八重咲き」、葉に黄色や赤の模様が入る「カメレオン」など、鑑賞価値の高い品種が栽培されます。山野草として扱われることもあります。「ドクダミは引っこ抜くものであって、植えるものではない」と思っている方も、機会があればぜひ見てほしいです。
■薬用や食用として
「日本植物方言集成(八坂書房)」には、ドクダミの方言名が200以上掲載されています。古くから身近にあっていろいろと利用されていたのでしょう。薬用としては葉を乾燥させたドクダミ茶などが広く知られています。
食用に関しても調べてみました。『地方によっては、地下茎を水にさらし、酢みそで食べたり、みそ漬けにした、という』『若芽を摘み、天ぷらにする。高温で揚げると臭いがうすれる』(「食べられる野生植物大事典 新装版 橋本郁三著(柏書房)」より引用)などの記述が見られます。
味に関しては人それぞれの好みですが、若葉を使用するとさほど臭いは気になりませんでした。揚げ油と衣の味がドクダミの風味に勝ちます。
■さいごに
ザッソウ視点だと駆除しづらくやっかいな植物です。園芸視点では花や葉の美しい品種があることがわかります。薬用視点では薬効の高い植物とされます。
みなさんも興味を持った植物をさまざまな視点から調べてみてはいかがでしょうか、きっと新しい発見があります。
(ヤサシイエンゲイ 小林昭二)】

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【撮影】14時40分=伊藤 幸司
もちろん、これがなんだかわかりませんが、ちょっとかわいいので、撮りました。

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【撮影】14時42分=伊藤 幸司
多峯主山(とうのすやま)を下りきったのだと思いました。山麓の、小川沿いの、のどかな緑の中を歩いています。

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【撮影】14時46分=伊藤 幸司
じつはつい先日、山旅図鑑no.279 仙元山で調べたばかりの花なんですが、出てきません。
仙元山の12時48分にありました。ムラサキカタバミです。『松江の花図鑑』からの引用で【良く似た「イモカタバミ」は葯が黄色】と出ていました。そうです、そうです。
『ウィキペディア』の『ムラサキカタバミ』には次のように書かれています。
【南アメリカ原産であるが、江戸時代末期に観賞用として導入されて以降、日本に広く帰化している。環境省により要注意外来生物に指定されている。】
007シリーズに出てくる美人スパイのイメージでしょうかね。登山道が終わって町に出たとたん足元に登場しました。


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まあ、覗きますよね。山は下ったし、新鮮で安いものがなにかありそうだし。案外ふだん買わないようなものがあるかもしれないし。

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【撮影】14時49分=伊藤 幸司
この幼稚園のあたりから吾妻峡へと向かいます。大東幼稚園という名前ですね。
『大東幼稚園』のホームページを覗いてみました。
【自然に親しみながら、豊かな心と体を育てます。
大東幼稚園は、山の緑と渓谷美に囲まれた、素晴らしい自然の中の幼稚園です。
子供たちは恵まれた環境の中で、四季の変化を感じ自然の大切さを学んでいきます。
園の入り口には農園があり、野菜や花を育てます。苗を植え、水をやり、収穫し、そしてそれを食べる。
自然の尊さを学びながら、協力して一緒に作業を行うことで集団生活も身に着けていきます。
●多彩なカリキュラムで楽しく学ぶ。
通常保育のカリキュラムにも専任の先生による体育やスイミング、言葉を豊かにする漢字指導や忍耐力・集中力を養うお習字、週1回の英語の時間があります。
もちろん、外遊びや自由保育の時間もたっぷりとり、バランスの良い時間割となるよう工夫しています。
日直や給食、お掃除の当番もありますから、次第に自信や責任感が芽生えていくことを保護者の方は感じられるでしょう。
●課外教室と預かり保育。
課外教室としてピアノやサッカー、体操など数多く用意しています。第一に子供たちの情操を豊かにすることが目的です。
そしてもう一つ、正規の保育時間以外でも、園で責任を持ち子供たちのお世話を行うことで、保護者の方の負担を軽減したい、ということも目的としています。
ですから「預かり保育」も充実させています。
通常は18時まで。最長で19時まで延長が可能です。】

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【撮影】14時54分=伊藤 幸司
農家の庭先という感じのところから吾妻峡へと下ります。

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【撮影】14時57分=伊藤 幸司
これが吾妻峡のドレミファ橋。向こう岸に渡って、入間川に沿って下流に進むと、川遊びやバーベキューができて公共河川地なので無料という飯能河原へと出ることができます。
ですが、増水していて滑る人も出そうな状況でもありう、今日はここまで。希望者に入浴と食事の可能性を残すために、タクシーで宮沢湖へと向かうことにしたのです。

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【撮影】15時07分=伊藤 幸司
バス通りに戻る手前で大きなカタツムリを見ました。なんというカタツムリか、もちろん知りません。
これは、ミスジマイマイですね。『浅羽ビオトープ周辺の生き物たち』は『我が家(埼玉県坂戸市)の近くを流れている高麗川の浅羽ビオトープで観察される生物の写真を扱ったサイトです』とのことですから、地元の情報です。この写真と同じ『ミスジマイマイ』がありました。
【我が家の近くで見るカタツムリは通常の1cmぐらいのサイズが多いのですが、これは高麗川の特定の樹木に梅雨の頃現れます。殻の直径が4cmぐらいあると思います。今では滅多に見かけないので、いなくなっていないか気にかけてみています。
一時期姿をまったく見かけなかったのですが、昨年(2009年)再び発見。ほっとしました。ともかく大きいので、なかなか迫力があります。
無理やり木から引き剥がして手の上に乗せたりもしましたが、危険を察知するのか、一度引っ込めた体をなかなか出してくれません。しょうがないので再び木の枝にのせてきました。
ちなみにこれらのカタツムリは寄生虫を持っていることもあるようで、触ったあとはよく石鹸洗剤で洗わないといけません。
撮影年月:2003年7月】

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【撮影】15時07分=伊藤 幸司
これもミスジマイマイです。前の写真のミスジマイマイとほとんど同じ木で生活しているようですが、顔つきがずいぶん違うので画像検索で似た顔を探し出して確認をとりました。
『森羅万象 あしゅりんんが撮影した生物の写真を掲載しています』に『ミスジマイマイ/三条蝸牛 2016年07月30日』がありました。
【東京都 高尾山 ミスジマイマイは模様の変異が大きなカタツムリだ。
三本の条模様が入っていることが名前の由来だが、四本入っていたり、条模様がなかったりと、いろんなパターンがある。この個体は、火焔彩と言われる虎縞模様が強く出ており、殊の外美しい。】
掲げられた写真は、この写真ととてもよく似ています。そういう意味で美形なんだと思います。

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【撮影】16時39分=伊藤 幸司
吾妻峡入口かバス通りに出ると、ちょうどバスがくるところでした。飯能駅で降りると、メッツァ行きバスを教えられました。まるで会社か工場への通勤バス専用停留場だと思ったところに止まっていたバスに乗り込むと、終点がメッツァ。
サイト名が metsa-hanno.com ですからしょうがないのかもしれませんが、せめて「メッツァビレッジ」とか「ムーミンバレーパーク」としてもらわないと、近くの(実はすぐとなりの)「宮沢湖温泉 喜楽里 別邸」に行く我々にはチンプンカンプン。あやうく乗り損なうところでした。
……で、宮沢湖温泉 喜楽里 別邸で入浴、ベランダに出ると眼下にムーミン谷がありました。

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【撮影】16時39分=伊藤 幸司
宮沢湖温泉 喜楽里 別邸のベランダから見えた範囲のムーミンバレーパーク。

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【撮影】17時18分=伊藤 幸司
入浴時間は通常1時間としていますから、1時間後の17時にタクシーを予約して、稲葉さんご推薦のレストラン・アニバーサリーの予約もしました。
タクシーは入浴施設とつながっている西武ハイヤーでしたが、一般予約料金420円に、時間指定すると固定迎車料金310円が加わり、指定時間から遅れると5分後にメータが入れられるとのこと。そういう設定の理由がわからないわけではありませんが、山から下山したときにタクシーを呼ぶ場合はよほど注意しないとね、という感じ。メーター料金1,600円に730円が加わって2,330円になりました。時間指定をしないと2台をきちんと揃えられるかどうかわからないといわれたら、そうなるんですよね。

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【撮影】17時37分=伊藤 幸司
これは最初のスープです。コーヒーが出ているのは私の特注。以前、上高地の帝国ホテルでランチを食べたときに、コーヒーを先にほしいと言ったら、ものすごく嫌な顔をされました。登山者は飲み放題のコーヒーを飲み放題されるというような顔つきでしたね。あるいは別のとき、ロビーでお茶にしたときに、コーヒーカップと紅茶カップが同じだったので、コーヒーも紅茶も区別なしに継いでくれるので、飽きるまで飲み放題の登山者になったことがありました。夏の上高地では新人教育の場としているというより、バイトを雇っているという感じがしたものです。
もちろんこの店ではそんな気配なしに、コーヒーとスープを最初に味わわせていただくことができました。(おかしいかな?)

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【撮影】17時47分=伊藤 幸司
みんなで頼んだのは「野菜3倍アニバーサリーセット」で税込み2,100円。「野菜3倍」というのは飯能市が推奨している地元野菜たっぷり運動とのこと。そういう目で見ると嬉しくなりますね。

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【撮影】18時00分=伊藤 幸司
そしてこのハンバーグ。稲葉さんおすすめのとおり、おいしいハンバーグでした。

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【撮影】18時00分=伊藤 幸司
いつもの日常とは違う空腹ですから、何を食べても美味しいのですが、こんな感じで楽しい夕食までやれると、軽い山歩きとはいえ、リフレッシュ効果は抜群です。アベノコロナに対する免疫力も当然アップしたはずです。帰りの電車さえ気をつけていただければ。



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